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よしなしごと

2017年7月 8日 (土)

モラル <ルールとは違う>

多発する中高生のサイバー犯罪-誰でも起こせるのか? 金子 清隆 JIJICO 2017/6/21

 国内初のランサムウエア作成容疑で中学生が逮捕された事件についての論評。

金子清隆氏はITモラル教育の必要性について

ITモラル教育の必要性

インターネット上にはサイバー犯罪に利用できるツールや情報が散在しており、未成年でも入手可能なので、年齢に関係なく誰でもサイバー犯罪を行えます。
最近ではこうしたツールやサービスを取引できるアンダーグラウンド市場も存在し、サイバー犯罪を行う技術的ハードルは低下しています。

サイバー犯罪は物を盗む、人を傷つける、といった物理的行為が伴わないため、犯罪を行うという意識が希薄になりがちです。
特に未成年の場合はその傾向が強いでしょう。
現代の子供たちは幼い頃からインターネットに触れていますが、サイバー空間での不適切な行為を教わったり、止められたりする機会はありません。
むしろ仲間の中では「かっこいい」と称賛されることもあります。
現在、学校ではIT教育に力を入れていますが、知識やスキルだけではなく、サイバー空間でやってはいけないことなどのITモラルに関する教育にも力を入れるべきだと考えます。

と、述べておられる。
ITモラルの教育に注力すべきという金子 清隆 氏の主張には賛成である。重要なのは各論で、IT業界に身を置く者としてどう関わるのかが重要だと思う。

 本筋ではないところに引っかかる悪い癖で、どうしても気になったのは最後の

サイバー空間でやってはいけないことなどのITモラルに関する

という部分だ。

ルール
やってはいけないこと → 法、規則 → 強制力あり
モラル
やらなければいけないこと → 道徳、倫理、規範 → 強制力なし

ではないだろうか。

 この記事の元になった事件は、刑法168条の2,同条の3「不正指令電磁的記録に関する罪」(不正指令電磁的記録作成・保管)だから、法(ルール)に違反している。モラルの問題ではない。

 また、法令順守とモラルは異なる。
例えば「不正指令電磁的記録に関する罪」は2011年の刑法改正で新設されたので、2011年まではウイルスを作っても罪には問われなかった。 つまりルール違反ではなかった。
しかし、ウイルスを作ったり使ったりするのは2011年以前からモラルには反した行為だ。

 日本人はモラル、ルール、マナーの区別をしないで議論しているのではないだろうか。
(因みに、交通ルールはマナーと区別しないで議論されることが多いようだ。)

モデル

モラルについて、↓のようなモデルを考えてみた。

Photo

 モラルとは、「あるべき理想の姿があって、その理想に近づこうとすること」という解釈だ。
理想から離れてるにつれてモラルが低くなる。これ以上理想と離れてはいけないところにルールがある。そして、ルールは明文化された法や明文化されない掟などの強制力を持つことが多い。

 人には理想(モラルの中心)から離れる力が働いていて、自然にしていると、モラルは低くなり、ルールをいつか犯してしまう。(黒い矢印) 一方で、人の意識には理想(モラルの中心)に向かう力(白い矢印)があって、2つの力がバランスしたところが現在のモラルだ。

 モラルが高い人やモラルが高い国というのは、2つの力が理想に近いところでバランスしている。モラルの低い人やモラルが低い国は理想から離れたところでバランスしているということになる。

理想(モラルの中心)

 ルールは理想からこれ以上離れてはならない境界だ。人が集まったときモラルがバラバラでは社会生活を営む上で問題があるので、理想からの許容範囲を決めたものだ。 重要なことは、この境界は人が決めたということである。したがって、時代や、社会情勢によって変わる。(ウイルス作成罪のように)

 モラルの中心にある理想は人によって異なる。
一神教の人たちは「神の教え」があるのでモラル中心は明確で、個人によるバラつきも少ない。理想を追い求める、矢印(白)の方向も明確だ。

 一方、日本人は、一神教でない人が多いので「神の教え」のような明確な中心がないので、中心はボヤけている。 理想を追い求める矢印(白)の方向は、中心がぼやけているので方向が定まらない。ルールは比較的明確なので、矢印の方向はルールを目指してしまう。

Photo_2

日本人はなぜモラルとルールが区別できないか

 このモデルで考えると、一神教の人たちは明確なモラルがある。一神教の人たちが日本人を見るとモラルが無いように見えるのではないだろうか。 しかし、日本人にもモラルはある。ルールから内側にかけてグラデーションがかかったようで見えにくいだけだ。この問を考えたのが新渡戸稲造で日本人のモラルを武士道だといった。

 全ての日本人が新渡戸稲造のように時間をかけて考えているわけではないから、多くの日本人はモラルの正体がよくわからない。 その結果、見えやすいルールについて論じるのではないだろうか。そして、ルールを守ること(法令順守)もモラルとして論じてしまう。

「ITモラル」(サイバー空間におけるモラル)

 「ITモラル」があるとすれば、汎用的なモラルの一部分だろう。モラルは中心に近づけば近づくほど抽象的になるので、「ITモラル」があるとするとルールの境界付近で、ルールと区別できないのではないだろうか。その結果、「ITモラル=IT技術を悪用してはいけない」になる。

 つまり、「ITモラル」が必要と言っている人たちが教えたいのは「モラル」ではなく「ルール」ではないか。ならば素直に「ルールを守りましょう」といえば良いのではないだろうか。

 交通安全教育で「交通ルールを守りましょう」と言うように「パソコン・スマホを使うときのルールを守りましょう」、「ネットを使うときのルールを守りましょう」といえば良いのではないだろうか。

 「ITモラル」は、基本的には現実空間の一般的なモラル(道徳)をサイバー空間に置き換えればよいと思う。 置き換えるときに技術的な知識は必要だが、サイバー空間用のモラル(道徳)を考え直す必要はない。

 サイバー空間はIT技術が不可欠だ。技術を使っているからモラルが低下した際の影響は現実空間より大きい。

 例えば、「陰で悪口を言わない」は現実空間ではモラルだ。しかし、「SNSや掲示板で悪口を匿名で書かない」はサイバー空間ではルールになる。

 「他人の個人情報を話す」は現実空間では問題にならなことが多い。しかし、「他人の個人情報を掲示板に書く」のはモラルに反する。

セキュリティ技術者に求められるモラル(倫理)

 セキュリティ技術者育成に関わっておられる方は皆さん倫理は重要と仰るのだが、聞いてみると「やってはいけないことを教えなければならない」と仰る。これはルールだ。

 技術者には技術者特有の倫理(モラル)が必要だ。セキュリティ技術者には技術者としてのモラルの他に、弁護士や医療関係者など他人の秘密を扱う者に求められるモラルが必要だ。

 「ルールを守りましょう」など次元の低い議論がまかり通るのは、ITに長けた者はルールを犯す者という意識があるのだろう。しかしセキュリティ技術者においては謂れの無いことだ。

自称識者に求めること

 自称識者の諸氏にはモラルとルール、規則と倫理はきちんと分けて説明してもらいたいものだ。


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2017年6月23日 (金)

ヒネクレ者にどう対峙するか <オマエが云うか!!>

 σ^^)をよく知る人は「オマエが言うか!!」と言われそうだが...

 ヒネクレ者とは、空気が読めないとか、協調性が無いとか、拘りが強いとか、マイワールドに引きこもるなどの特性がある人のこと。

 困るのは、周囲の価値観と自分の価値観に距離があった場合に、その距離を縮めようとしないことだ。

 太古昔恐竜が絶滅したときでも哺乳類が生き延びたように、劇的に環境が変わっても、ヒネクレモノは生き延びる可能性がある。

 とはいえ、ヒネクレ者がいると周囲が困ることが多い。 そして、忠告しても指導しても効果は期待できない(無い)。効果が無いからヒネクレ者なのである。

 本当に困るのは、チームとして成果を求められたときだろう。求められる成果とヒネクレ者の価値観が一致するときは良いが、一致しないときにはチーム力が半減するので困っる。 では、ヒネクレ者にどう対峙するかを考えてみようとしたが、有効な解決策は思いつかない。(^^ゞ 

 そこで、σ^^)もかなりのヒネクレ者らしい(自覚症状はちょっとだけある^^)ので、これまで、上司・同僚がσ^^)にどのように対応していたかを考えてみた。

 

矯正しようとする
ますますヒネクレる。
そもそも、人の性格を矯正できるならこの世からヒネクレ者はいなくなっている。
 
放っておく
文句を言いすぎて、放っておかれたことは多いような気がする。
放っておかれたときに興味があることを見つけると幸せな気分になって没頭する。
 
時々褒める
ヒネクレ者は普通の人とポイントがずれているので、他人から褒められたポイントは自分では大したことはないと思っていて、「こいつ分かってね~な」と思っている。
それでも「見放しているわけではない」くらいのメッセージにはなる。
 
課題を与える
ヒネクレ者は自分の価値観に合致しない課題は最小限の労力しか使わない。しかし、自分の価値感に合致した課題は期待以上の労力を使うが、ハマってしまうので、なかなか結果が出ない。
 
素直な人と組ませる
これまで、成果がでた事例を思い出すと、素直な人(整理屋、マネジャ)を組んだときだ。ヒネクレ者は独りでは成果は出ない。
 

 つまり、ヒネクレ者に対しては

  • 無理に矯正しようとしない
  • ネタを振ってハマりポイントを探す
  • ハマったら放っておく
  • 成果が出そうになったら、マネジャを投入する
  • 成果がでたら褒める

という方法が効果的のようだ。

 ただし、サンプル数1なので、世の中のすべてのヒネクレ者に有効かどうかはわからない (^^;


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2017年2月25日 (土)

言うことが違うことは悪いことか

 現場の人と話していると「管理部門は言うことが変わる」という。

 よくある現場と管理部門との軋轢だ。悪いことに、決して面と向かっては言わない(大人の対応というそうだ...)ので、いつまでたっても問題は解決しない。

 今の立ち位置は、ある時は現場のマネジャ、ある時は管理部門というコウモリ的存在なので、現場のマネジャとして話をよく聞いてみると

  • 去年と言うことが違う
  • 人が変わるということが違う
  • 機会(場所)によって言うことが違う

ということらしい。

はて?と考えた。
「去年と言うことが変わることは悪いのか?」

 「明日は昨日の連続ではない」当然「来年は去年の連続ではない」だから今年変わるのではないか。彼らの中には、「明日は昨日の連続である」という固定観念があるようだ。

 おそらく、自分たちを取り巻く環境は日々変わっていることは分かっている。しかし、「明日は昨日の連続であってほしい」と願っているのではないだろうか。

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さらに考えた。
「立場が変わると言うことが違うことは悪いのか?」

 組織に属している人、特に官僚型階層組織に属している人は、部署や役職を背負った発言を求められる。 部署が変わったり役職が変わったとたんに言うことが変わる人はよくいるではないか。自分の胸に手を当てればだれでも心当たりがあるはずだ。

 良いか悪いかは措いて、それが窮屈な組織の中で生きていく知恵というものだろう。問題とすべきは、なぜ言うことを変えなければならないのかではないのか。

さらに^2考えた。
「機会(場所)が変われば言うことが変わるのは悪いのか?」

 管理部門の人の言うことが現場Aと現場Bで違うらしい。

 ウチの現場はセブンイレブンやファミマのように規格化された現場ではない。そんな現場に対して同じことを言えという方が酷だろう。現場にいる多くのマネジャは規格化された現場で働いていた人だから、どこの現場に対しても同じ指示やアドバイスをすべきという固定観念があるのではないだろうか。

さらに彼らは言う。
「いうことが違うなら、ちゃんと説明しろ!」

 管理部門の人が現場の人にアドバイスしている場に立ち会ったことがあるのだけれど、ちゃんと理由を説明していた。

 アドバイスする側、される側という当事者ではなく、第三者的な立場で聴いているのでわかったのかもしれない。官僚型階層組織では「暗黙の権力があるので」管理部門の人が悪意なくアドバイスしていても、アドバイスされる側は「アドバイスを有難く頂いている」感じだ。

 管理部門のアドバイスが口頭でしかも量が多いと、理由は忘れられ、具体的な行動の部分だけ伝わっているのではないかと思う。

さらに^2彼は言う。
「口頭で伝わらないのなら、文書で指示せよ。」

 多く人は反対側の経験があって、官僚型階層組織での「文書」の位置付けは分かっているはずなのだが...
さすがに、ここまできたら、「サボタージュ・マニュアル (2014/11/12) 」だろう。

 管理側もサボタージュマニュアルにある、目的が分からない会議を開いて、「方針を伝えたこと」にしているから、方針は現場まで伝わっていない。管理部門の多くの人は、実はこの事実に気が付いているのだが、窮屈な組織の因習に囚われて何もできない。結局、「方針は現場まで伝わったこと」になっている。

原因は、

  • 管理部門は方針に従って、環境を考慮して具体的方策をアドバイスしている。
  • 現場は具体的方策に囚われて、方針まで理解していない。

つまり、現場に方針が伝わっていないことが原因だ。

 さらに、この問題は階層的だから、問題解決を難しくしている。

 厄介なことに方針は管理部門の担当ごとに異なる。当然具体的方策も異なる。現場が方針を理解しようとしても、方針が異なっていることがある。現場からすると、管理部門内は全く考えていないように見えるのも当然である。ところが、管理部門の担当は経営層の理念と環境を考えて方針を決めているように感じる。

 本当に具体的方策を理解しようとすると理念までさかのぼって理解しなければならない。

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 現場で実行される具体的方策はその現場を取り巻く環境によって変わる。最近は移り変わりが早い。しかし、現場のマネジャの時代感は総じて遅い。

  残念ながら、現場のマネジャが具体的方策→方針→理念を考える環境もないし、習慣もなく、経営層はそれを良しとしている。

  •  現場のマネジャは「明日は昨日の連続ではない」ことを認識する
  •  管理部門は、「理念や方針が現場まで伝わる」環境を作る

ことが必要だ。

では、どうするのか

 分析しただけでは何も変わらないので、コウモリ的立場を利用して、現場と管理部門が建設的な話ができるように活動を始めた。

 簡単には変わらないことは分かっているのだが、本当に少しずつしか進まない。


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2017年1月26日 (木)

使命を説く <使命感の押し付けにならないように>

 「仕事」とは誰かから感謝されることとすると、仕事には大なり小なり使命がある。ところが、その仕事をやっている人は使命感を持っているとは限らない。

 暮らしていくだけで精一杯で使命感どころではなかったり、成果や顧客から離れすぎて使命感を忘れてしまったりだ。使命感がずれていることもある。組織内のマイノリティだったり、その組織に就くことを望んでいなかったりだ。

 自分のことを考えると、今の職は第一希望ではなかったし、技術屋なので組織内のマイノリティだ。そして技術屋としての使命感を持っているので組織の使命とは完全に一致していない。しかし、多くの部分は重なっている。そうでなければ、とうに辞めていただろう。

 使命感を人に説くときには、ずれに気をつけなくてはならないと思う。

 ずてている部分の使命を説かれても、はっきり言って困る。若い頃はこのずれを考えていなかった。自分の使命感と一致するかしないかのように考えていたので、使命感の押し付けのように感じた。多くの部分は重なっているのに。

 使命を忘れている場合にはストレートに伝えれば良いのだろう。使命が重ならない場合にはその職や組織に向いていないと言わなければならない。使命を見失ったのと、使命が異なるのは全く違う。自分の使命感と異なる使命の職場で働くのは苦役だ。しかも周囲や顧客に迷惑がかかる。

 個人の使命感と組織の使命が全て一致するまたは全く重ならないというのは少なく、多くの場合は 一部が重なっているのだろう。このような人に使命を説くときには、組織の使命と個人の使命感がずれている事実と、ずれていることが許されるかどうかを伝えなければならないと思う。(ずれに不寛容な組織はある。)

 伝える人も、伝えられる人も二元論で考えると問題は解決しない。

 歳をとって若い人たちに話すことが増えた。使命を説くときには、完全に一致しなくて良いことを伝えるようにしている。そして、どうしても一致しなくてはならないコアの部分が一致しないなら部署を変わるように勧めている。 (今時は辞めろと言えばパワハラだけど、結局本人も周囲も困るのだけど)

職場のことなので具体的に書けず抽象的な表現になってしまった。


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2016年12月27日 (火)

頑張っている人に「がんばれ」といってはいけない!

闘病中の小林麻央さんのブログ 「心の声」 2016-10-03
(http://ameblo.jp/maokobayashi0721/entry-12206042757.html)

「がんばれ」と言ってはいけない。「応援している」と言ってはいけない。
小林麻央さんはすでにがんばっているし、応援してもらおうとは思っていない。

「がんばれ」は他人に言うことばではなく、自分にいう言葉だ。
他人を応援する前に自分を応援しなければならない。

「がんばれ」と言われる状況になったときに考えることは、「自分は悔いなく生きたのだろうか」ということ。

「悔いがある」と思っても「悔いがない」と思っても、せめて生きている間は「悔いなく生きよう」と思う。

小林麻央さんのメッセージは、「がんばれと言ってほしい」「応援してほしい」「見守ってほしい」ではなく、「悔いなく生きたい」ではないだろうか。


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2016年11月21日 (月)

マニュアル <使うこと自体は悪いことではない>

マニュアルについて考えてみた。

 マニュアルには、

  • 経験の少ない者でも一定のサービスが提供できる。
  • 個人差によるサービスのバラツキを少なくすることができる
  • 普段経験することが困難な緊急時の対応に有効である。
  • 組織や個人の暗黙知を形式化したり、ノウハウを伝承することができる。

などの効果がある。気をつけて運用すれば、マクドナルドやトヨタの例を引くまでもなく極めて有効なツールだ。

 マニュアルが文字どおり手順書であれば良いのだが、「作業要領」になり、「作業規則」になってしまうと、改訂が極めて困難になる。

 このように、運用を間違えると、マニュアルが教条的になり、現状からズレた非効率的な手法を強制されるから、個人が勝手にマニュアルを変えて運用するようになる。

 この時点で、状況に合わせてマニュアルを改訂すればよいのだが、教条的な運用になっていると、マニュアルは改訂されない。その結果、変更してはならない重要な部分や手法までも勝手に変更されるようになり、東海村JCOのように大きな事故につながる。

経営側と現場の思惑

 先を見ない、刹那的な経営者やマネジャは、唯一無二のサービスが提供できる者を育てるより、マニュアルを使って全員がそこそこのサービスを提供できるようにしたいと考えるようだ。自分がそのポストに長く止まらないのであれば、マニュアルのアップデートも真剣に考えなくてよいから、お手軽に成果が期待できるのである。

 マニュアルは、ノウハウなど暗黙知の形式知化であるから、作成には多くの労力が必要だ。最低でも暗黙知を持っている者と、それを形式知にする者と、ドキュメント化する者が必要である。どれかが欠けても使えるマニュアルはできない。

 ところが、お手軽成果が欲しいマネジャはマニュアル作成を1人に任せがちだ。前述の3つの能力を併せ持つ者は極めて稀だからマニュアルを1人で作ると使い物にならないことが多い。

 使い物にならないマニュアルができても、お手軽成果が欲しいマネジャは、マニュアルを作ったことが成果だと主張する。使い物にならないマニュアルなど成果になろうはずも無いのだが、それを成果と認める風土があるのだ。

 いきおい、マニュアル=胡散臭い物、使い物にならない物という考え方になる。

 しかも、マニュアルが「作業規則」として運用にされようものなら、作業に支障を生じる。しかも、容易に改訂できない。

 業務の妨げとなるマニュアルを多くみていると、とりあえずマニュアル作りには反対しておいた方が、相対的に害が少ないと思うようになる。

 悲しいかな、このあたりが、トヨタと違うところだと思う。

マニュアルを有効に使うには

  • マニュアルを使う目的を共有すること。
  • 現状に合わせて随時更新すること
  • 運用の主体は現場であること。現場が作り現場が更新する。
  • 単なる手順書ではなく組織の智慧を伝えるものであること
  • マニュアルから先人の智慧を学ぶ文化を持つこと

 能動的であれ受動的であれカイゼン運動の主体は現場だ。
 当然マニュアルも、お上から与えられたマニュアルを使うのでではなく、マニュアルを使う現場が作成し現場に合わせてアップデートするべきだ。

 と、そもそも論を持ち出すと、嫌がる人が多いんだよね...


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2016年11月 6日 (日)

オフサイトミーティングを企画して分かったこと <信頼関係以上の話はできない>

 オフサイトミーティングを企画して分かったことは、参加者の信頼関係以上の話はできないということ。

  • 初対面の場合、互いに敵意が無いという信頼関係
  • 上位の者が参加する場合、無意識の権力で害を与えないという信頼関係
  • 参加者が解決しようとしている問題が共通しているという信頼関係

 オフサイトミーティングを企画して何回か失敗した。その結果

  • いきなり知らない同士腹を割って話せと言われても無理な話だ。
  • 利害関係があるのに本音を話せと言われても無理な話だ。

ということが今更ながら分かった。

 改めて言われなくても分かることだけれどミーティングを企画すると意外と実現できない。

 信頼関係は相手に敵意が無いことが相互に分かってはじめて築くことができる。そもそも、相手を知らない場合には、警戒するのが人の本能というものだ。 初対面の人と世間話をするときには、野球と、政治の話をしてはならないと言われる。初対面の人とは世間話さえ警戒するものだ。

 つまり、相手の人となりを知らなければ、世間話以上の話はできない。

 他部門など利害関係がある場合には本音が話せない。好き好んで自分を不利な立場にする者はいない。しかし、部門間の利害関係のように対等な利害関係の場合は、直接会って、話して、人となりを知ることで越えられるような気がする。

 見落としがちなのは、上司と部下など職階上の上下関係、本店と支店など組織的な上下関係の上の立場の者だ。 参加者が上の立場の者と 面識もあり、人となりも知っていて、敵意が無いことも知っていたとしても、直ちに本音が話せるわけではない。

 上の立場の者には「無意識の権力」がある。無意識だから、意識してその権力を行使しないことを示さなければ、参加者は本音は話せない。

 官僚型の組織、階層型の組織では「立場」から強力な無意識の権力が発生する。

 「今日は無礼講で」を信じて本音を言うのは、空気が読めない人か、自爆覚悟の発言くらいのものである。

 直接会って、話して、人となりを知り、互いに敵意が無いことを確認する方法は、自分ガタリやモヤモヤガタリ等がある。

 上の立場の者が参加する場合には、その人が、無意識の権力を行使しないという信頼関係を築かなければならないが、面識がない場合にはかなり難しいのではないだろうか。上の立場の者が参加するには、参加者と信頼関係を築いてておくことが必要である。

 自分を振り返ってみると、参加者と信頼関係が築かれているかは、よく分からない。未だ手探り状態だから、信頼関係を築く具体的な方法は分からない。(飲み会に参加するというレガシーな方法は思いつくけれど。)

 オフサイトミーティング形式のミーティングで問題解決しようとする場合には、互いに参加者の考え方や立場の違いを理解した上で、互いに協力して問題を解決しようとしているという信頼関係がなければ、問題解決は到底無理だ。

 オフサイトミーティングに限らず、多くの人が失敗するのは、信頼関係が構築されていないのにいきなり問題解決を目的としたミーティングに「本音」を持ち込もうとしている場合だと思う。


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2016年11月 4日 (金)

成果を明確にしない仕事

 「成果」を明確でない仕事のオーダーをうけることがある。
「オーダーを出す側」は上司だったり上位の部署だったり。

 「成果」が明確でない場合、特に実施部署の「成果」に直結しない場合には、実施部署は最低限の仕事をするようになる。最低限の仕事が職務倫理的にどうよという指摘はあるが、実施部署とすれば「成果」にならない仕事に貴重なリソースを使う事のほうが職務倫理に反していると思っている。

問題は2つ

1. 「成果」が明確でないが、実は全体の「成果」に繋がっている場合。

 実は全体の「成果」に繋がっているが、実施部署としては「成果」が明確でないことはある。 組織の風通しが悪く、オーダーを出す側の説明が足りない場合や、セクショナリズムが横行し、部門最適になっている場合などだ。

 全体の「成果」に繋がっているのだから、本来なら最大限の仕事をしなければならないところだが、実施部署は最小限の仕事しかしないので、当然全体の「成果」はあがらない。「成果」があがらないばかりか、その仕事は無駄になる。

2. 最低限の仕事しかしなくなること

 実施部署は「成果」に繋がらないと最低限の仕事をするようになる。そして、いつも最低限の仕事をしていると、いざという最大限の仕事ができなくなる。 これは人の優劣ではなく人間の特性だと思う。

 解決策は簡単である。「成果」を明確にすればよい。実施部署の「成果」でない場合は、全体の「成果」であることを明確にすればよい。 ところが、世の中そんなに簡単ではないので「成果」を明確{にしない|できない}ことはある。オーダーを出す側のマネジメント不全であるとか、セクショナリズムが横行しているとかだ。そこで、ミドル・マネジメントの出番になるわけだ。

良いマネジャ
 オーダーを出す側の真意を理解して、実施部隊のモチベーションを上げる。
オーダーを出す側の「成果」と自部署の「成果」共にをあげる方法を考える。

普通のマネジャ
 自部署の「成果」になることに応じて投入するリソースを変える。
自部署の「成果」になるなら最大限の仕事、ならないなら最低限の仕事をしておいて、「オーダーが良かったら成果があがったのに」と、後からオーダーの不備を指摘する。

悪いマネジャ
 リソースを増やすでも減らすでもなく対応する。オーダーした側の「成果」はあがらないし、自部署の「成果」もあがらないので、結局、リソースの無駄遣いになる。モチベーションも上がらないから、このような仕事が続くとじり貧だ。

 着地点を見付けるのはミドル・マネジメントの仕事だ。重要なことは、求められているのは「成果」であるということ。

 組織は相似形だ。特に階層型の組織はその傾向が強い。

 トップが××なら、部門のトップも××、部署のトップも××になる。(××は記号。バツではない^^)
 トップから「成果」が分からないオーダーが下りてきたら、部署のトップも「成果」が分からないオーダーを出す。当然ミドルのマネジャも...

 逆に、ミドルのマネジャが「悪いマネジャ」のような対応しているなら、その組織全体が「成果」を求める体質ではないということだ。


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2016年10月31日 (月)

看護倫理教育 <倫理の衝突のケアが重要?>

教育者側に焦点を当てた看護倫理教育に関する研究の動向と課題
遠藤由美子 つくば国際大学医療保健学部看護学科
医療保健学研究 3号:125-135項

によると、

 1976年までは「看護倫理」の授業があったが、単に看護婦の礼儀作法や処世術を教えているにすぎないのではないかという批判があり、看護学校で単一科目として教えることを止め「看護学総論」で触れるだけになったらしい。

 看護業界において看護倫理教育は大きなテーマらしく、ネットで看護師の倫理教育に関する論文を探すと結構な数の論文が見つかる。ところが、看護倫理教育について論じている論文は少なく多くは現状の看護倫理教育に関する調査論文である。

遠藤由美子氏は「教育者側に焦点を当てた看護倫理教育に関する研究の動向と課題」で

 筆者は、約10年間、看護倫理を教授してきた。
看護は看護倫理そのものであるという強い思いから、看護行為の根底にある人間に対する尊厳や生命に対する畏敬の念を大切にできる人間になってほしいと願い、講義・演習を組み立て実践してきた。しかし、どれだけ学生に伝わったのか確信が持てないでいる。どのようにしたら現代の学生が、卒業後、自分で考え判断し倫理的行動がとれるようになるのか試行錯誤しているのが実状である。

教育方法の確立以前の問題として、看護倫理という言葉の概念規定も不明確なままであり看護界においてもコンセンサスを得ていない。倫理教育の目的も曖昧なままである。倫理的判断や倫理的感性の成熟が求められる昨今の医療界で、その責任を充分に果たせるだけの能力を培ってきたとは言い難い。社会のニーズに的確に対応できる看護職を育成するため、看護倫理教育の体系化、教育方法の確立は、早急に取り組まなければならない課題である。

と述べておられる。考えている人がいないわけではなさそうだ。

 さらに、ネットで検索すると、「新人看護職員研修における看護倫理教育」というテーマも多く見つかる。

 看護師は、国家試験を受ける前に現場に研修に出る。すると、学校で教えていることと、現場で行われていることのギャップに直面する。看護師の仕事は人の生命に関わる。そして、現場は忙しく過酷だ。現当然倫理的な問題もあるようだ。

 現場での研修を行う者の年齢は20才前後だ。20才前後しかも未就業時で倫理の衝突を経験するわけだ。この経験が看護師人生に大きく影響することは想像に難くない。

 この点は、技術者と大きく異なることではないだろうか。もう一つ技術者の育成と異なる点は、

 看護師を育成する教師は臨床経験が必要らしい。 つまり、看護師の教育には実務経験者が携わっているということである。。

 20才前後しかも未就業時に経験する倫理の衝突に対するアドバイスは実務経験者にしかできないだろう。この点については、看護師育成システムはよくできていると思う。


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2016年10月 7日 (金)

技術者倫理教育 <実務経験者が参加する理由>

 情報セキュリティ人材育成において「倫理が重要」だと皆さん仰る。
ところが、多くの人は「情報セキュリティ技術者として行うべきこと」ではなく「情報セキュリティ技術者に限らずやってはいけないこと」しか言わない。「やってはいけないこと」は「倫理」ではなく「法」だ。(「倫理が重要」 2016/10/3)

 このように「法」と「倫理」が混同されているのは、情報セキュリティ業界に「情報セキュリティ技術者倫理」がないことが原因ではないかと考えた。

 情報セキュリティの人材を育成しようとすれば、倫理教育は避けて通れない。では、情報セキュリティ技術者を目指す人に、何を「倫理」として伝えるのだろうか。

 そもそも、自分は「情報セキュリティ技術者倫理」を伝えられるのだろうか。

 考えるだけでは始まらない。いきなり「情報セキュリティ技術者倫理」は難しいので、大きい概念である「工業倫理」、「技術者倫理」と「技術者倫理教育」について調べてみた。

 ネットを探すと、「工業倫理」「技術者倫理」「技術者倫理教育」を扱った論文はたくさん見付けることができる。

 工業倫理、技術者倫理教育の観点から、三氏の論文を読んでみた。

工業倫理教育のすすめ」 中村収三 大学の物理教育 2000-2号
(http://ci.nii.ac.jp/els/110001942524.pdf?id=ART0002125092&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1475139744&cp=)

 なによりも、学生たちに,「技術者は社会に対し特別の責任を負う職業である」という専門家意識を持たせることが肝要である.
 繰り返しになるが,「特別の責任」とは、「技術が危険なものとを安全に利用する智恵である」ことと,「技術が高度化すればするほど,一般大衆には理解し難くなっている」ことからくる責任である.

 仮想事例よりは,内外の実事例のほうが興味を引くようだ. さらに,講師の体験事例を話すと,学生たちの目の色が変わってくる. 実社会で技術者を20年,30年とやっていれば,工学倫理に関わる問題で,無念な思いや,恥ずかしい思いや,あるいは,誇らしい思いをした経験の,二つや,三つはあるものだ. それを技術者の卵たちに伝えるのも,教育者としての義務だと考える.

工学倫理と技術者の倫理」 岩崎豪人 京都大学文学部哲学研究室紀要 : Prospectus No.3
(http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/50691)

 倫理問題は、技術者個人の問題であるだけでなく、システムや構造の問題でもある。企業倫理や環境倫理とも絡んでくる。そのような問題を工学倫理外の問題として切り離してしまえば、工学倫理の問題として残るのはエンジニア個人のモラルや問題解決能力という狭い領域になってしまう。その領域のみが工学倫理の専門領域だとして独自性を強調する手もあるが(専門家は往々にしてそうしたがるわけだが)、企業や環境の問題として取り込んで考えていくことの方が、より実りある成果をあげられるのではないだろうか。

 個人が確固とした良心を持つことや、正しい倫理規定をつくることが、ただちに問題を解決する特効薬になるわけではない。個人と社会の相互作用の中で徐々により良い方向へ状況を変え、倫理観を醸成していくという歩みの遅い道しかないのである。その際に注意すべき点は、2節で述べたように、従来の相互監視・相互規制型のモラルや倫理を強化することは弊害が大きいという点である。集団や組織を閉じるのではなく、むしろ情報も開示しオープンにしていきながら、内集団ひいきに陥らないような、公正な新たな仕組みや、倫理を「作り上げていく」という観点が必要になる。

技術者倫理教育の現状と課題」 杉本泰治 土木学会論文集H (教育) Vol1.2, 11-20, 2010.3
(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscejeep/2/0/2_0_11/_pdf)

 わが国では、倫理と言えば、高いところから権威を持って説かれるものという思い込みがある。技術者倫理についても、「厳格な倫理規範」であり技術者を「厳しく律する」、などと説かれていることが少なくない。これは、しかし、誤解である。このタイプの誤解は、普通の人の倫理が素直に育つのを阻害さえする。
 倫理は本来、わかりやすく、近づきやすいものでなくては、普通の人は守れないし、守る気にならない。
 現代の技術者は、少数のエリートではなく、産業、行政など広範囲にわたる需要をみたす多人数である。どの人も一定レベルの専門的能力と適性をそなえる。という意味で「普通」の技術者であることが期待されている。その倫理は、普通の技術者にとって身近な、お互いに気軽に語り合える等身大の物でなければならない。技術者の就業の期待像は、普通の技術者が、普通の倫理意識をもち業務に従事する、ということだろう。

 技術者倫理教育のにない手は、学生たちを技術者として育てる責任を負い、学生たちの行く末を思いやる立場の人でなければならない。といえば、専門科目の常勤教員である。
 常勤の専門科目教員が責任者となり、しかし、自分だけではできないから、必要に応じて他の協力を得るやり方が、実際に行われていて一般的である。実務経験が十分でない常勤教員が増える傾向にあるが、先輩エンジニアとして実務経験のあるエンジニアの助力が有用である。

中村収三氏は
技術者の個人の専門家意識を持たせること、そのためには実体験を元に体験談を語ることができる教師が必要だという。

岩崎豪人氏は
中村収三氏の論文を引きながらも、
技術者個人のモラルに頼るのではなく業界全体の問題としてとらえ、仕組みや倫理を「作り上げていく」という観点が必要になるという。

杉本泰治氏も
中村収三氏の論文を引きながら、「倫理」は等身大でなければならず、実務経験が十分でない常勤教員が増加しているから、実務経験があるエンジニアの協力が重要だという。
 また、技術者倫理教育においては、雇用労働経験のない学生にとって利益相反、内部告発の学習は難しいため、実務経験がなくても理解しやすい注意義務から学習するべきという。

考察

 杉本泰治氏が指摘するように、利益相反(倫理のジレンマ)や内部告発には正解があるものではないから、労働経験が無い(少ない)学生には難解だろう。 しかも、一般的に理系の人間は正解がある問題は得意だが、正解がない問題や正解が複数ある問題は苦手だ。 

 注意義務(倫理規定)は、知識として習得することは可能だが、倫理規定を単なる知識(問題に対する正解)として学習すると、技術者倫理が「単なる心構」になる恐れがある。

 職に就くと多かれ少なかれ技術者倫理と企業倫理(組織の都合)のジレンマに直面することになる。そのときに、技術者倫理を「単なる心構え」として学習した者は、企業倫理を優先しがちになるのだろう。特に、企業、団体、部署内で技術者が少ない場合には、企業倫理が圧倒的優勢となり技術倫理を体現することが困難になる。(困難になるところか無理だ。)

 実務経験がある技術者が技術者の卵である学生に教える意義は、
利益相反や内部告発に関する体験談はもちろん、技術者倫理は「単なる心構え」ではなく技術者の根源であることを、実務のジレンマを経験した技術者が語ることだと思う。


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