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よしなしごと

2019年12月19日 (木)

緊急ではないが重要な仕事 <重要な仕事をやる>

自己啓発本の古典、スティーブン・コヴィー の7つの習慣に、時間管理マトリックスという、緊急度と重要度のマトリックスがある。

重要度/緊急度 緊急 緊急ではない
重要
第I領域

・危機や災害、事故、病気
・締め切り直前のタスク
・クレームへの対応
・直前に迫った会議の資料づくり
第II領域

・人間関係づくり
・体力づくり
・スキルアップ(自分を磨くこと)
・準備や計画
・適度な息抜き
重要ではない
第III領域

・無意味な電話やメールへの対応
・突然の来訪への対応
・多くの会議
・無意味な接待やつきあい
・多くの報告書
第IV領域

・暇つぶし
・長時間、必要以上の息抜き
・だらだらとした電話
・世間話
・その他、無意味な活動

 7つの習慣は覚えていないけど、このマトリックスはよく覚えている。

 仕事がたくさんのあるときに、どの仕事を優先するかは悩ましい。そのときに、本当に注力しなければならないのは緊急ではないが重要なこと(第II領域 )らしい。

優先すべきは重要度

 重要で緊急な仕事は最優先せざるをえない。問題は、緊急ではないが重要な仕事と、重要ではないが緊急な仕事のどちらを優先するのかである。フランクリン・コヴィー先生は緊急ではないが重要な仕事をやるべきだとおっしゃる。

 緊急ではないが重要な仕事を放置すると、重要で緊急な仕事になる。しかし、重要な仕事は緊急ではない間に手を付けておけば余裕を持って仕事ができるから、重要で緊急な仕事になる前に片付けることができる。

 では、重要ではないが緊急な仕事はどうするかというと、やらなくて問題がないならやらない。どうしてもやらなければならないならアシスタントや部下に任せて、重要度が高い仕事をやる。これが基本だ。

緊急度を優先すると

 いつも仕事に追われて追われている人は、緊急度が高い仕事を優先しているようだ。いつも緊急度が高い仕事をしているから余裕がなく、出来栄えも悪く、判断を間違うこともある。忙しさを言い訳にするが、重要ではない仕事をやるから忙しくなることに気づかないようだ。

 上司がこのタイプだったら部下は大変だ。放置されていた重要で緊急ではない仕事を振られる。その仕事は重要で緊急な仕事になっているから、出来栄えが悪くなったり、納期に間に合わなくなったりする。 

緊急度を優先する上司の特徴

 観察していると、このタイプの上司の特徴は、上司が一番忙しくしていることだ。そして、その部署は皆いつも忙しく働いているが、仕事の出来栄えが悪いことが多い。

 このタイプの上司は、重要で緊急な仕事を終えたときに、自分がやるべき仕事ではなく、できる仕事に手をつけているようだ。上司としての立場を理解していないのだが、立場を理解せず緊急の仕事ばかりやることを良しとする管理職がいるのだ。

 緊急ではないが重要な仕事をやらないと長期的な観点が無くなるので、仕事は、目先の利害にとらわれ、場当たり的になる。場当たり的でも対応できない案件は問題が顕在化するまで先送りされる。そして、重要で緊急な仕事になる。...エンドレス。

どうするか

 ちょっとワガママに「この仕事は重要じゃないからやらない」と言ってみるところから始めてみる。



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2019年12月15日 (日)

問題解決法を知らない人

 問題解決法にセオリーがあることを知らない人が結構いる。

  • 問題解決には一般的なセオリーがある。
  • 問題解決法を知らない人は場当たり的に対応する。
  • 問題解決法を知らない人がマネジャーになると組織が問題先送り体質になる。
  • 問題解決法は若いうちに学ぶべき。

問題解決法

 問題が発生したときに、解決すべき問題の決定や原因の追求、解決策の優先順位の決定など苦もなく決定・実行できる、問題解決能力が高い人がいる。このような人は、「問題解決法」を振り回しているようには見えない。経験に裏付けられた暗黙知があるのだろう。

 暗黙知は伝えにくいし、学びにくい。なぜその解決策を思いついたのか、尋ねても明確な答えが返ってこなかったりする。考えてみれば、先輩や上司から教えてもらった問題解決法は業務に特化したものだから、業務が変わったり昇進すると使えなくなる。

 昇進したときの研修でも教えてもらってない。だから、問題解決法をマネジメントに必要な能力の一つとして勉強し始めた。分かったことは、一般化された問題解決法があって、業務や役職などの自分が置かれた環境に適用すればよい。問題解決法自体は汎用的だから、業務や業種、役職が変わっても使える。

問題解決法を知らない人

 問題解決法を知らない人は、問題が発生したときに場あたり的に対応する。もちろん、問題発生時の一次対応は重要だ。一次対応を誤ると被害が拡大する。眼の前にある顕在化した問題が沈静化するのは目に見えてわかるから、場当たり的な対応がうまい人は、問題解決能力が高いと評価されていたりする。

 それに比べて、問題の真因を発見して対策を実施するのは、地味で効果も見えにくいから評価されない。しかし、顕在化した問題にその都度対応するより、問題を解決すれば、顕在化することもなく対応の必要もない。

 組織的な対応が必要な対策を実施するには、それなりの権限が必要だ。逆に言うと、権限に応じた問題解決能力を持たなければならない。

 権限が少ない担当者ができるのは自分1人でできる対策が多い。問題解決のセオリー通りに考えて対策を実行するのと、場当たり的に対応するのは、同じように見える。同じことも多い。

 権限が少ない担当者のときに場当たり的な対応が上手くなった人は、
昇進して権限を得てもやはり場当たり的な対応で乗り切ろうとする。
その結果、チームや部署、部門全体が場当たり的な対応しかせず、問題は解決されず放置されることになる。
そのときに、場当たり的な対応が下手な人は問題を先送りにする。
そして、チームや部署、部門全体が問題先送り体質になる。

問題解決法はいつ学ぶのか

 何年か前に、ミドルマネジメントを対象にして、解決しやすさそうな問題を選んで、問題解決能力の獲得に取り組んだ。しかし、残念なが達成できなかった。ミドルマネジメントが行動を起こそうと思うような動機付けもできなかった。

 何十年も場当たり的な対応や先送りで過ごしてきた人の行動様式が一夜にして変わることなどないから、問題解決能力は若いうち獲得する方がよい。しかし若いうちは担当業務の能力を向上させることを優先するから、初めて昇進して部下を持つ頃にトレーニングするのが効果的だと思う。

 定期的に同じ問題が顕在化する職場は、問題解決法を知っている人がいない職場だ。そのような職場では、問題解決法を教えてくれる人はいないので、自分で学なければならない。これから先、場当たり的な対応や問題先送りで過ごすより、はるかに建設的だ。そして、マネジメントするようになったら周りを幸せにできる。



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2019年12月 9日 (月)

検索は自分の頭で考えるための手段

 Twitterで原田朱美氏の「検索で得た情報の価値」のスレッドを読んでみた。Twitterの長文は読みにくいなあ。

 原田朱美氏は、webを使って調べて書く授業をされていて、大半の子が検索で出てきた情報の価値を判断できないとおっしゃる。

 大学受験や資格試験を受験する時に過去問を集めた問題集を使う人は多い。過去問集は唯一の正解を集めたものだ。正解が目の前にあるなら、自分の頭で考えて理解するより覚えてしまう方が簡単だ。事実、覚えてしまえば何とかなことも多い。ところが、社会に出ると唯一の解は無いし、たくさんある解の中で最善の解は時と場合により変わるから、過去問集は役に立たない。

 若い人達は検索結果で唯一の解が得られると思っているのだろう。だから、検索結果を評価しないでコピペしてしまう。

 「検索は自分の頭で解を考えるための手段である」ということを、年長者は教えなければならないのだと思う。



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2019年12月 6日 (金)

責任 <ごめんなさいではなく、ちゃんとやること>

 責任について考えてみた。

  • 責任は謝罪することではなく、ちゃんとやること
  • 「ちゃんとやる」には能力が必要だから、マネジャになっても勉強が必要

 スーパー大辞林によると責任は

  1. 自分が引き受けて行なわなければならない任務。義務
  2. 自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。

平たく言うと、1.は「ちゃんとやる」ことで、2.は「後始末」のことだ。ところが、「責任をとる」=「辞任する」や、「説明責任」=「謝罪」で使われることが多い。相手を糾弾したり、叱責する場面で使われる言葉になってしまった感がある。

 役職が上がって肩書が付くと、漏れなく責任も付いてくる。そういう人と話をすると責任を持つと言う人が少ない。「責任が持てない」とか「責任に取れない」とかとかく逃げを打つ。つまり、失敗を叱責されたり、攻撃されたり、部下の尻拭いをしたくない。ということだ。

 稀に、「責任は俺がとる」という人がいる。立派だ。しかし、その人は「ちゃんとやる」と言っているわけではなく、潔く謝罪すると言っているだけだ。社会人として、潔く謝罪する前に、やるべきことを「ちゃんとやって」ほしいと思う。

 なぜ、「ちゃんとやります」と言えないのか考えてみた。

 「ちゃんとやる」には能力が必要だ。自分の仕事に責任をもって「ちゃんとやろう」とすると、担当者業務をこなす能力が必要だ。さらに、管理職になれば管理能力やリーダーシップ、マネジメント能力が要求される。

 しかし、責任を「謝罪すること」と考えると特に能力は必要ない。問題が起きたら潔く謝罪すれば良い。下手を打つと炎上するけど、潔く謝罪すれば逆に株がが上がることもある。結局、能力がない人は、責任=謝罪しか方法は無いのだ。

 違う観点では、責任=謝罪が常識になっている組織は、能力がない者がそのポストに就いているということだ。

 現場のマネジャーとヒューマンエラーの話をすると、ヒューマンエラーが原因で被害が発生した後の後始末の話しになる。マネジャーの責任として、後始末は必要だ。しかし、エラーが発生しないように「ちゃんとやる」ことがおざなりになっているのではないだろうか。

 「ちゃんとやる」には能力が必要だから、マネジャになっても勉強が必要なのだと思う。


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2019年11月22日 (金)

やりがい(2) <やりがいは与えられない>

やりがいは、

で書いた。何年か経って読み返して見ても、他人にやりがいを与えることはできないと思う。

 若い人達に話す機会があって、やりがいの話をしている。組織から求められる規範と自己実現欲求が重なるところが「その組織でのやりがい」だと思う。

 やりがいの話をすると、地位、役職や給与を言う人がいる。地位は承認欲求、給料は安全欲求だからやりがい即ち自己実現欲求を求めている人に低次の欲求を満たす提案をしても無駄だ。無駄どころか、他人を低次の欲求に引きずり下ろす野蛮な行為だろう。

 逆に、安全欲求や承認欲求を満足していない人に、やりがいを求めるのはやりがい詐欺だ。地位:承認欲求、給料:安全欲求を満足していないのに、やりりがい:自実現欲求を押し付けて地位以上の判断を求めたり、支払うべき給料を払わなかったり(サービス残業も)する。

 若い人達には、直接的に「やりがい」とは言わないが、自分がやりがいを実感した時の体験を話すようにしている。
若い人達に訊ねると、上司から上司のやりがいを聞いたことが無いと言うのだ。そういえば若い頃上司からやりがい聞いたことが無い。金とか地位の話はよく聞いたけど。

 若い人達が、この職場にやりがいは無いのかと思ってしまう。と考えて、自分がやりがいを実感した時の体験を話すようにした。やりがいは人それぞれだから、自分のやりがいを若い人達に押し付けるつもりはない。

 組織から求められる規範そのものでなくてよいけど、全く重ならない自己実現欲求でも困る。若い人が1人でも自己実現を目指すようになれば良いと思う。

 残念ながら、他人にやりがいは与えられないけど。


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2019年11月12日 (火)

専門書(2) <何メートル持ってる>

 10年くらい前から若い人達に話す機会があるので、技術で生きるなら自己投資が重要という話をしていて、その中で、仕事に関係がある本を何メートルくらい持っているか?(買ったか?)という質問をしている。

 ちょっと前まで1mくらいの人が多かったのだが、最近訊いたら20cmくらいが多かった。紙媒体の情報は減っているのは事実だけれど、20cmというのはかなり衝撃的だ。オライリーだったらバッタとコウモリとラクダで20cmじゃないか。

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 ちょっと前は、技術力向上のための自己投資を測る指標として所有している専門書の量は有効だったけど、今は違うのだろうか。

 それとも、技術を生業としようとしている人が減ったのか。

 技術を生業としようとしている人と、そうではない人を一同に集めて、教育・訓練するのは無理なのかもしれない。



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2019年10月21日 (月)

やりたいこと、やるべきこと、できること

 ある人と「やりたいこと」「やるべきこと」「できること」の話をしていたら、どうも話がかみ合わない。
自分は、まず「やりたいこと」をやる、それをおいても「やるべきこと」があればやると言ったのだが、「できること」があるだろうと言われるのだ。後で冷静に考えてみると、かみ合わないはずだ。「できること」の話なんかしてない。

 知人曰く、「その人は「やるべきこと」が何なのかが分からないから、できる人に「できること」を期待しているのでは?」とのこと。

 たしかに、「できることは」わかりやすい。「やりたいこと」は時にわからなくなることがあるけど「やりたくない」を考えるとわかってくる。それに比べて「やるべきこと」はわかりにくい。だから「できること」を考えるのだろう。

 なるほど。主体を個人ではなく組織に変えると、自所属が「やるべきこと」がわからないから、とりあえず「できること」をやろうという発想になるのか。腑に落ちてしまった。

 何をやるか考えるときに「やりたいこと」「やるべきこと」「できること」を考えると良いと言われる。
これら3つが一致していれば良いのだが、一致しないことはよくある。いや、一致することが稀だ。だから、何を優先するか決断しなければならない。

18歳のときに技能で食っていこうと決心した。
41歳のときに「やりたいこと」を最優先しようと決心した。
50歳のときに「やりたいこと」をおいても「やるべき」ことがあることがわかった。

60歳を前にして、耳順の域には達していないと思う。しかし、これから先は「やりたいこと」をやろう。


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2019年10月19日 (土)

トロッコ問題 <スタンスを取る>

死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」 岩国の小中学校が保護者に謝罪 (2019/9/29) 毎日新聞

 毎日新聞によると、山口県の中学校と小学校でトロッコ問題を題材にした授業を行ったところ保護者から「授業に不安を感じる」と指摘され、両校の校長が謝罪したという。学校は保護者に対して何を謝罪したのか記事からはわからない。

 学校に苦情を言った保護者はモンスターペアレントではないと仮定して、小中学校において、トロッコ問題を扱うことの是非について考えた。

 結論は賛成だ。小学校5、6年生になれば十分考えられるだろう。中学生なら十分に考えられる。

〇具体例

 具体的な例があったようだ。

Mr.サンデーで語った橋下徹の日本の治水行政の闇が怖すぎると話題に (2019/10/14) 秒刊SUNDAY

 若い頃に思考実験していないとショックなのかもしれない。

 為政者はいつか決断しなければならない問題だ。
トロッコ問題に正解は無いから、判断するのはエネルギーがいるし、その判断に異論を唱える者は少なからずいる。「命は地球より重い」と決断しないのは簡単だが、為政者としての覚悟はいかがなものか。政治家である橋下徹氏は、この問題が発生したときには、自らが決断しなければならないと考えたのだろう。当然だ。有権者は決断できない者を首長にしたくない。

 では、一般市民はどうか。
「治水行政の闇」と切り捨てるのは簡単だ。しかし、思考実験して自分のスタンスを決めることが重要だろう。この問題は、橋下徹氏の発言のようにどこにでもある問題だ。つまり、被害を受ける側になる可能性があるということだ。

 殺されないようにするためには、トロッコ問題は形を変えてどこにでもあることを受け入れるところから始まる。


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2019年10月11日 (金)

高校国語学習要領 <問題の所在が誤っている?>

 高校の国語の学習指導要領が新しくなって「論理国語」が新設されたらしい。著名人のウケは芳しくない。

 この変更の背景はOECD生徒の学習到達度調査(PISA)の読解力の成績が低下したことが影響しているらしく、「論理国語」の新設は読解力を向上させることが目的だろう。

問題の所在

 日本語で記述された文章から内容や情報を読み取るには。

文字→単語→文→文章→意味→意思・情報

の変換が必要だ。文字や単語、文は初等教育で学習する。

 読解力が低いのは「文章→意味」の変換能力が不足しているということだ。これは、Reading Skil Test(RST)を実施している「教育のための科学研究所」の所長新井紀子氏が「AIに負けない子供を育てる 東洋経済新聞社」で指摘しておられる。

 これまでの国語教育は、日本語の、表現手段、伝達手段と表現された内容、伝達された情報を区別していなかった。また、文学作品において登場人物の心情や作者の意図を教える内容が重要視されているから、文学偏重という人は多い。今回の変更で新設された「論理国語」で文章から論理的に情報を読み取る方法を教えるのだろう。ところが、文学も論理構造も文章によって表現された内容や伝達された情報に変わりはない。

 ネットでは「文学なき国語教育」などの議論が多い。しかし、これらの議論の多くは問題の所在を誤っているのではないだろうか。問題は国語教育で扱う「文学」か「論理」かではなく、文学作品や論理的な文章を読み解くために必要な、文章の意味を理解する能力が不足している生徒がいること。さらに、文章の意味を理解することができない生徒がいる事実を、国語科の教師が認識していないことだ。

 国語科の教師には「読めばわかる」ことをなぜ教えるのかという。しかし、意識することなく「読めばわかる」ようになったであろう国語科の教師には「読んでもわからない」生徒がいることが解らないのではないだろうか。

  「AI vs 教科書が読めない子供たち 新井紀子 東洋経済新報社」にある「アミラーゼ問題」は次のような問いである。

次の文を読みなさい。
アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。
この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。
セルロースは(     )と形が違う。
(1)デンプン (2)アミラーゼ (3)グルコース (4)酵素

 正答は問題文の中に書いてあるから、読めばわかる。しかし、新井紀子氏は答えられない日本人が多いことを指摘している。ネットの議論でも、意識せず「読めばわかる」ようになった識者は、「読んでもわからない」人がいることを認識していないのではないだろうか。

 国語科以外の教師は、「読んでもわからない」生徒がいることを知っている。「読めばわかる」ように書いてある文章問題を出題したときに、生徒は答えが分からないのではなく、題意が理解できないことは、教師なら容易に判定できるだろう。

 読解力が不足している問題は国語科だけの問題ではない。国語科以外の科目の教師は、まず、国語科の教師にこの事実を理解させる必要があると思う。

高校国語の指導要領改訂の影響

 新井紀子氏の著書によるとRSTのスコアと偏差値に相関が認めらるらしいので、読解力も偏差値と相関があると考えられる。高校生は偏差値で入学できる学校が輪切りにされているから、偏差値の高い高校では読解力向上の授業は必要はなく、読解力向上の授業は偏差値の低い高校で必要だろう。つまり、「論理国語」はすべての高校生が学ぶ教科ではないということだ。

 文科省は、「論理国語」「文学国語」を選択にしており、必要に応じて選択するべきと主張している。しかし、多く識者が指摘するように、大学入試対策という観点では難解な科目より容易な科目が選択される。その結果、「文学国語」が選択されなくなるのではないだろうか。

 指導要領改訂の改訂が「文学」が理解できる能力を持っている生徒の文学を学習する機会を奪うとすれば問題だ。


参考



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2019年9月27日 (金)

筆算の線、手書きダメ? <自分の頭で考える習慣が無い人たち>

西日本新聞に「あなたの特命取材班」という企画があって 、そこに↓こんな記事があった。

  筆算の線、手書きダメ? 小5、160問「書き直し」 (2019/9/24)

 筆算の横線が手書きだったとして、担任に「書き直し」を命じられたというもの。

教師に対する不満とか、学校の理不尽な規則とかよくある話題だ。ちょっと、考えてみた。

  • 今後は、誰かが決めた正解を覚えるの記憶力より、自分の頭で考えて最適解を求める思考力が重要。
  • 教師や親世代は、記憶力が優位な人達だから考える習慣がない。
  • 親世代は自分で考えて結論を導き、それを子供たちに説明しなければならない。

〇2020教育改革

 2020教育改革の肝は「記憶力より思考力」だと思う。

 現在、常識だとされていることや、先人が思考して得られた結果を記憶するだけでなく、その先を自分で考えられるようにしようということだ。

 ところで、この改革の最大のネックは親と教師ではないだろうか?。

 偏見が含まれていることを容赦願うとして、

 特に教師は、ほぼ受験戦争(記憶競争)に適応した人だから、思考力より記憶力が優位ではないだろか。同じように、いま、子供を育てている親世代も同じだろう。いま、そこそこ以上の収入と、そこそこ以上の地位を得ている親も、思考力より記憶力が優位だろう。

 社会構造が記憶力有意の人間でできていると言って過言ではないだろう。このような社会で「これからは思考力の時代です」と言っても急激な変化は期待できないのではないだろうか。

 記憶力が優位な人が全て思考力が無いわけではない。思考する習慣がないだけだろう。 

 思考の習慣がない人を見分ける方法は簡単だ。常識的なことを「なぜそうなの?」と聞いてみると良い。思考の習慣がない人は、困ったら「決まりだから」と言う。まるで、「決まりだから」は「考えたくない!!」という心の叫びのようだ。

 と考えると。

〇「なぜ筆算で定規を使わなければならないのか?」

 「なぜ筆算で定規を使わなければならないのか?」の問いに「計算ミスが減るし、みんなにやらせている」とか「学年で決めています」と答えた教師は「考えること」ができないのだろう。

 「学年で決めています」と答えれば、「なぜ、学年でそう決めたのか?」と質問されるに決まっている。その教師は、おそらく「なぜ、計算ミスがへるのか」「なぜ、みんなにやらせているのか」、「なぜ、学年でそう決めたのか?」に答えることができないのだろう。考えられないんだから。

 同情する事情はある。

 これまで、しつこく「なぜ」を問う子供は教師から鬱陶しがられて、教師になるための教育を受けられない可能性が高かったのだから。だから、教師になるような人は子供の頃から「なぜ」を問わなかったのだ。そして、大人になってから、その習慣を変えることはできない。

〇親世代は

 親世代は、学校や教師の理不尽を責めるだけではいけない。なぜなら、親自身も「なぜ」を考えられない可能性が高いのだから。

 であれば、親自身も「なぜ筆算の横線を、全て定規で引く必要があるのか」を考えなければならない。

 誰かに、問うだけではダメだ。自分で考えて結論を導き、その正しかどうか分からない結論を子供に説明しなければならない。もちろん、合理性は無いという結論に至るかもしれないが、それを説明しなければならない。子供は素直に「なぜ?」と尋ねるけど...

 面倒なことだけれど、面倒なことを全て教師に任せてはならない。

〇まとめ

  • 今後は、誰かが決めた正解を覚えるの記憶力より、自分の頭で考えて最適解を求める思考力が重要。
  • 教師や親世代は、記憶力が優位な人達だから考える習慣がない。
  • 親世代は自分で考えて結論を導き、それを子供たちに説明しなければならない。

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