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よしなしごと

2019年6月 8日 (土)

県立高校の髪型ルールに「細かい」の声 <「らしさ」と「らしさの限界」が考えられなくなってる>

県立高校の髪型ルールに「細かい」の声 「サイドを短くする」「横髪が出ている」は校則違反  J-CAST NEWS 2019/4/26

 最近この手の話題が多い。

 学生も、教師も、保護者も、そしてネット民も思考停止していると思う。

 昔昔、小学生だったころ、中学生は坊主頭だった。 校則で決まっていたのだ。 その頃、ちょっと上の世代は生徒会が中心になって校則を変えた。 ちょっと上の世代はしらけ世代と呼ばれていたけど、全共闘世代の名残があって、中学生でも髪型は自由だと主張して校則を変えるだけのパワーがあった。

 その世代がこの記事を読むと「アホらしっ」と思うのだろう。

 たいてい高校にはその高校独自の「らしさ」がある。 特に歴史がある学校は代々伝わっている「らしさ」がある。 校則で決めている髪型とか服装は、「らしさ」の限界、つまり理想的な「らしさ」からの距離を決めるということだろう。

 当然のことだが、理想的な「らしさ」も、「らしさ」の限界も時代とともに変わる。 ところが、この議論をしている、学生も、教師も、保護者も、そしてネット民も、それが変わらないことを前提にしているのではないだろうか。

 つまり、思考停止している。

 思考停止していることは意外に楽で、考えることは大変だ。 でも、

 教師は理想的な「らしさ」と「らしさの限界」を考えるべきだ。
そうすれば校則が妥当かどうかが分かる。 誰が何を考えて決めたか分からないような校則で生徒を縛るよりよほどましだろう。

 生徒も「らしさ」と「らしさの限界」を考えなくてはならない。
自分で考えた限界は守ろうとするものだ。 誰が決めた変わらないような校則に縛られるよりよほどましだろう。

 生徒は思うだろう。
教師は大人だから「らしさ」を考えられるが、生徒は未熟だから「らしさ」を考えることができないと。

 ところが、大人になっても「らしさ」を考えられない人はいるものだ。 それは、たいてい、学生の時に「らしさ」を考えていない人だ。

 学生の時に「らしさ」を考えなかった人は、大人になっても「らしさ」を考えられなくて、誰が何を考えて決めたか分からないような規則を、自分の子供に強要しなくてはならなくなる。

 そして、考えられない連鎖は続く。


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2019年4月21日 (日)

優秀なフォロワー <アイヒマンと紙一重>

優秀なフォロワーであろうとする人は多い。 しかし、優秀なフォロワーとアイヒマンは紙一重だ。

一見、責任はリーダーにあって、フォロワーには責任が無いように見える。
事実勘違いしている人も多い。
ところが、フォロワーであっても結果責任は問われる。

優秀なフォロワーであったアイヒマンは法廷に引き出され裁かれ、刑に処された。
悪意があるリーダーであるヒットラーの命令を忠実に遂行したアイヒマンは、優秀なフォロワーであり悪意は無いと主張しても、結果責任は引き受けなければならないのだ。

これを教訓にするなら、いたずらに優秀なフォロワーを目指すのは危うい。



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2019年4月 8日 (月)

送別会 <人材育成ってこういうこと>

 元上司が退職されたので送別会を企画した。
その上司とは、何度か上司―部下の関係で仕事をした。

  • 新しい部門を立ち上げたり
  • 腹が立ったという理由で無茶なプロジェクトを引き受けたり
  • キャリアチェンジしようと思うようになったり

 大勢に声をかけると収拾がつかなくなりそうだったので、若い人(といっても40過ぎだが)を中心に、送別したいと強く思っている人に声を掛けたら皆集まってくれた。

 最初5,6人と思っていのだが、送別したい人がたくさんいて、気が付いたら20人以上になっていた。送別したいと強く思うのは、自分が成長を実感したときの上司だからだろう。

 年の功か最後に絞めを任されて、改めて参加している人達の顔ぶれを見たら、皆次世代を担う人達だと思った。

 最近人材育成に関わることが多いのだが、これが元上司による人材育成の結果なのだと思った。


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2019年3月27日 (水)

アイヒマン

 確固たる意志による悪ではなく、凡庸による悪を指摘したのはハンナ・アーレントだ。(イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告(2014/12/04)) 凡庸であっても罪は人に還元される。


 凡庸による悪の基は思考停止だと思う。停止しているのは抽象的な思考で行動するための思考は停止しない。
これを、官僚制という側面から見ると、官僚組織では目的や原則など抽象的な思考は停止し、業務を遂行するための思考は停止しないから、凡庸な悪は官僚制によって増幅される。


 1人が犯す悪は高が知れているから、巨悪の陰にはかならず悪の増幅機能がある。
例えば、地下鉄サリン事件。 松本智津夫の頭の中にあった悪意を増幅し実現したのは官僚組織である教団である。


 世の中にアイヒマンは少なからずいるようだ。
大きなことやる者はアイヒマンを見付けるのが上手い。さらに使うのも上手い。 そして、アイヒマンを使って自分1人ではなしえないことをやり遂げる。


 アイヒマンには悪も善もなく単なる増幅装置だが、アイヒマンを使う者が善人ならアイヒマンも含めて大善人になるし、アイヒマンを使う者が悪人ならアイヒマンも大悪人になる。 某教団のように。


 20年前にカリスマ性を持った人が新しい部門を立ち上げ、部門は拡大してきた。そして、カリスマがいなくなった現在は迷走気味だ。


 残された者はアイヒマンだったのだろうか?。


 カリスマには長期的なビジョンがあったので、多くのアイヒマンがカリスマのビジョンを拡大しそれを実現して、新しい部門を立ち上げ拡大することができた。 ところが、カリスマがいなくなって、長期的なビジョンを持って者がいなくなったから、短期間で方針が変わる。それを、アイヒマンが増幅するから振れ幅が大きくなっている。


 現場はたまったものではない。 
よく考えてみると、長期的なビジョンを持っていない者もさることながらそれを増幅した者も、アイヒマンのように糾弾されるということだ。


 思考停止している人に自分で考えて自分で判断しようと提案するのだが、なかなか受け入れられない。
まるで自らアイヒマンになろうとしているようだ。







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2019年3月 1日 (金)

黎明期を経験した人は過去を美化しすぎる <何をしたのかではなく、何をしようとしていたんか>

☆ 黎明期の行動を無批判に真似てはいけない。 
☆ 真似るべきは、成長期、成熟期に忘れてしまった、黎明期の行動指針だ。 

###
 最近サービスの「品質」と「納期」について考えている。 製品のライフサイクルは、導入期、成長期、成熟期、衰退期と言われる。製品だけでなくサービスも同じだろう。

 導入期 (黎明期)は「納期」を意識していなかったという仮説を立てて、知人に意見を聞いたら、黎明期を経験した人は、当時も「納期」を意識していたと言う。 しかし、黎明期を美化しすぎるのではないかと思う。

 黎明期は成熟期より良かったわけではない。 製品は販売されていないか高価なことが多かったし、情報も少なかった。 人や金などのリソースの割り当てが少ないことも多かった。

 リソース不足は工夫と熱意で補うしか方法は無い。 ときに給料以上の負担をしなくてはならないことがあるけれど、黎明期から普及期を乗り越えて成熟期にすることができれば達成感は感じられた。

 成熟期は言い換えれば停滞期だ。そして気がつけば衰退期になっている。

 停滞期、衰退期になっていることに気づいたときに、黎明期を知っている人は、組織が変わったことや担当者の気質が変わったことに原因を求めがちだ。 ところが、よく考えてみれば、年寄りが「昔は良かった」と言っているのと同じで、言わば「三丁目の夕日症候群」ではないかと思う。

 時代は変わり、環境は変わり、担当者の気質は変わっている。 そして、必ずしも昔の環境が良かったわけではない。 昔は当時の環境に対応できたが、今は現在の環境に対応できていないだけのことだ。

 「三丁目の夕日陽症候群」に陥らないようにするためにはどうするか。

 抽象度を上げて考えてみると良いのではないか。
黎明期が良かったのは、リソースの少なさを工夫や気合と根性でカバーしていたことではない。 多くの場合、

  • 顧客第一主義であること。
  • 自らの価値を向上させること
  • これらの行動指針を共有すること。

これからの行動指針は、黎明期を乗り切るために必要不可欠で、個々の置かれた状況は違っても、行動指針に照らして行動していた。 その具体的な行動が、リソースの少なさを工夫と熱意でカバーすることだったのだろう。

 重要なことは、これらの行動指針は黎明期を乗り切るためだけでなく、どのステージにおいても重要であるということだろう。

 だから、成熟期、衰退期に「三丁目の夕陽症候群」に罹って無批判に黎明期の行動を真似てはいけない。 真似るべきは、成長期、成熟期に忘れてしまった、黎明期の行動指針だ。

 行動指針と現状を考えて現時点での行動を決めればよい。それは、黎明期と同じ行動かもしれないが、多くの場合違う行動だろう。

 変えてはならないのは黎明期の行動ではなく黎明期の行動指針だ。


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2019年2月23日 (土)

「さすが東大」「あれでも東大」

 MBSの「林先生が驚く初耳学」で「高学歴ニートたちに林先生が特別授業!」をやっていた。 (林修が高学歴ニートと激突!君たちはなぜ働かないのか(2019/1/17) )

「さすが東大」、「あれでも東大」
 その中で林修先生は、東大卒は「さすが東大」、「あれでも東大」と世間から言われ、中間は無いとおっしゃる。 東大を卒業され、単に成功しただけでなく多くのことを経験されているだけに説得力がある。

 などと考えていたら、この言いぐさはどこかで聞いたことがあると思った。

 昔、職場で幹部候補試験を実施されていた。
30歳過ぎで幹部候補試験に合格する人が多く40歳過ぎて幹部(中間管理職)に登用されていた。
今は幹部登用試験に変わったので、採用時からの幹部候補を除いて幹部候補はいなくなった。

 試験に合格したからと言って幹部に必要な能力を備えているわけではない。
幹部候補試験に合格して幹部になった人と、幹部登用試験に合格して幹部になった人とはどう違うのか?。

 幹部候補試験に合格した人は、周りから「幹部候補」と見られて30代を過ごす。
この時期に周囲から「さすが幹部候補」とか「あれでも幹部候補」など評される。 中間は無い。 30代は幹部に必要とされる能力を獲得する期間だ。当人も能力が足りないことは承知している。

 そして、30代で能力を獲得した人は「さすが幹部候補」と評され、能力を獲得できなかった人はいつまでたっても「あれでも幹部候補」と評されるのではないだろうか。

 見方を変えると「幹部候補」として見られ扱われることで、つまり「幹部候補」というラベルをら貼れたことで、幹部に必要な能力を獲得しようと努力した結果、必要な能力が獲得できるのではないだろうか。

 「東大」も「幹部候補」も周りが貼ったラベルと実際の能力に差が無ければ「さすが幹部候補」「さすが東大」と言われ、ラベルに対して実際の能力が足りなければ「あれでも幹部候補」「あれでも東大」と言われるのだろう。 当事者にとっては、勝手にラベルを貼られて勝手に評価されるのは鬱陶しいことだが。

重要なことは、
貼られたラベルに対して要求されている能力は何かを知ることだ。

 林修先生は「東大」に要求される能力は創造力と問題解決能力だとおっしゃる。同じように「幹部」に必要な能力も問題解決能力だ。

 ところが、「東大」に必要な能力が「偏差値」だと思っている人がいる。 この人は「想像力と問題解決能力」を獲得しないので、いつまでたっても「あれでも東大」と言われるのだろう。

 同じように、「幹部」に必要な能力が「管理能力」だと思っている人がいる。この人もまた「問題解決能力」を獲得しないので「あれでも幹部候補」と呼ばれるのだろう。

結論
 「あれでも××」と呼ばれるのは悪いことばかりではない。 貼られたラベルに要求される能力を獲得すればよい。

 獲得できたかどうかは「さすが××」と言われるようになるのですぐわかる。


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2019年2月19日 (火)

なんで社内の人を「さん付け」して呼んじゃダメなの? <相対敬語> 

はてな匿名ダイアリーに,

  なんで社内の人を「さん付け」して呼んじゃダメなの? (2/14追記)

という投稿があって、そこらじゅうでネタにされている。

 結局、コメントした人たちは投稿者を納得させられなかったようだ。  コメントの多くは、以下のとおり。

〇常識だから

 そもそも、投稿者は常識に疑問を持っているので、「常識だから」では納得できないよね。

〇謙譲語だから

 投稿者は謙譲語も不要と主張している。
問題は謙譲語の存在ではなく、場面に合わせて尊敬語と謙譲語を使い分ける相対敬語が常識とされていることだろう。 
ちなみに、常に尊敬語を使うのを絶対敬語というらしい。 初めて知った。

 相対敬語については、

  現代日本語は本当に相対敬語なのか

の解説が分かりやい。 そして、「言葉のレシピ語楽」によると、相対敬語が定着したのは昭和中期以降で、それまでは絶対敬語だったらしい。

 日本人が場面に合わせて尊敬語と謙譲語を使い分けるようになったのは、つい最近ということだ。 言葉は時代とともに変わるから、昭和中期以降は相対敬語を使った方が都合が良い社会に変わったのだろう。 だから、相対敬語は日本人にとって変えてはならない常識やルールというわけではなさそうだ。 統一すべきという投稿者の主張はあながち荒唐無稽ではない。

〇身内だから

 相対敬語では「身内」の概念が重要になる。
投稿者は「身内=肉親」くらいの定義なのかと思う。 しかし、「身内」を若者言葉でいうと「うちら」くらいではないだろうか。

 若者も、会話の中で、「うちら」と思っている第三者のことを言うときには呼び捨てにするのではないだろうか。 当然、「うちら」の範囲は個人によって変わる。

 昭和中期では、多くの人が会社の同僚や上司を「うちら」と思っていたが、最近の若者は、会社の同僚や上司を「うちら」と思わなくなってきたということだろう。

 それは、時代が変わって社会が変わっているのだから自然なことだろう。 今後相対敬語は無くなるのかもしれない。 

〇「どっちかに統一しろよ」

 相対敬語は謙譲語の言い回しもさることながら、話している外部の人と、話に登場する内部の人の関係が濃厚な場合には謙譲語を使ってはいけないなど、場面に合わせてた使い方が難しい。 これをを見様見真似でマスターするのは結構大変だから、若いときは「どっちかに統一しろよ」と思ってしまうのも無理はない。

 尊敬語と謙譲語とを場面によって切り替えると考えると難しいが、簡単な方法は、身内の人が部外の人に自分のことを言う時のように言えばよい。

たとえば、担当者の自分(サトウ)と上司のスズキ課長が客先で説明する場合、

  • サトウさん : 「担当の私サトウがご説明いたします。」
  • スズキ課長: 「課長の私スズキがご説明いたします。」

と言うだろう。 サトウさんが上司のスズキ課長のことを言うとき、スズキ課長が担当者のサトウさんのことを言うときも同じように言う。つまり、

  • スズキ課長がサトウさんのことを言う場合: 「担当のサトウがご説明いたします。」
  • サトウさんが上司のスズキ課長のことを言う場合:「課長のスズキがご説明いたします。」

と言えばよい。

 外出中の電話を取る場合には、留守番電にメッセージを録音するならどう話すか考えるとよい。

  • サトウさん :「サトウです。ただいま外出しております。」、
  • スズキ課長:「〇〇課長のスズキです。ただいま外出しております。」

と言うだろう。 サトウさんがスズキ課長の外出中に電話を取ったら、スズキ課長の留守電メッセージのように「課長のスズキはただいま外出しております。」と言えばよい。

 身内の人はちゃんと敬語が使えることが前提だが。

閑話休題

 若者だけでなく年長者にも相対敬語が使えない人は少なからずいるように感じる。 
マネジャの観点では、好きでも嫌いでも相対敬語が使えるようになってほしいと思う。

 相対敬語が使えない人に共通しているのは、自分が話している相手側の観点が無い。
更に経験では、相対敬語が使えない組織は組織内での上下関係が重要視される傾向にあるようだ。 例えば、役所や大企業などの階層型、官僚型の組織などだ。

 つまり、外部との関係より身内の関係の方が重要と考えている人は相対敬語が使えない。 言い換えれば、顧客志向ではなく、組織内での自分のポジションが重要と考えている人は相対敬語を使わないということだ。

 外部の人の立場で、身内に敬語を使う人を見ると、この会社も官僚的なんだろうな、組織内の都合の方を優先するんだろうなと思ってしまう。 また、担当と話を詰めても組織としての総意ではないんだろうなと思ってしまう。

 将来、個人と組織との関係が現在のように濃厚・従属的な関係から希薄・対等な関係に変化していくと、それに伴って相対敬語は使われなくなるのだろう。それは自然なことだ。

 しかし、外部との関係より内部での関係の方が重要だから相対敬語が使えないのとは根本的に違うと思う。 相対敬語が使えない理由を考えてみると、組織の歪が見えてくるかもしれない。


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2019年1月28日 (月)

高学歴ニートたちに林先生が特別授業!

 MBSの「林先生が驚く初耳学」で「高学歴ニートたちに林先生が特別授業!」をやっていた。 (林修が高学歴ニートと激突!君たちはなぜ働かないのか(2019/1/17) )

 話していることは至極真っ当なことだった。

やりたいこととできること

 ニート君は「好きな仕事でなければ働きたくない」と言う。 それに対する説明のなかでこんな↓図が出てきた。

Photo

 このマトリクスで、だれでも1の領域(やりたい&できる)で働きたいと思うだろうし、3の領域(やりたくない&できない)では働きたくないと思うだろう。 しかし、世の中そんなに甘くないから、1の領域で働けない場合や、3の領域だけは避けなければならない場面に遭遇する。

 その時にどの領域を選ぶのかを考えるとき基準が2つある。
 やりたい仕事かどうかが重要なら横軸(赤)で、できるかどうかが重要であれば縦軸(青)だ。

 林先生は、できるかどうかが重要で、やりたくなくてもできる仕事(2の領域)をやるべきとおっしゃる。 精神論ではなく実体験から得た結論だから説得力がある。

 2の領域(やりたくない&できる)か4の領域(やりたい&できない)を選んだ場合、下世話だが2の領域は食っていけるけど、4の領域は食っていけないことがある。 また、2の領域は他人に利益をもたらすが4の領域は他人に利益をもたらさない。

 つまり、できることをやれば誰かに・何かに貢献できるということだ。

 では、理想的な1の領域の仕事をやろうとすると、2の領域からアプローチするのが良いか、4の領域からアプローチするのが良いのだろうか?

 できる/できないはスキルが違い、やりたい/やりたくないは職種が違う。

 2の領域で長く働いても1の領域とは職種が違うから、1の領域に簡単に移行できる可能性は少ない。一方で、4の領域で長く働けばスキルが向上して1の領域に移行できる可能性が高まるのではないだろうか。

結論

  •  できることで選び、2の領域で働くと、周りに利益を与え、周りから評価される。しかし、1の領域に移行することは難しい。
  •  やりたいことで選び、4の領域で働いている人は、周りに利益を与えず、周りから評価されない。 しかし1の領域に移行できる可能性がある。

どちらの、戦略を選ぶかは本人次第だし、残念ながら前者の戦略を選ばざるを得ないこともあるだろう。

 死期が迫ったときに後悔しないのはどちらか考えて選ぶと良いんじゃないだろうか。

 σ^^)の基準は赤(やりたい/やりたくない)だ。


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2018年9月13日 (木)

「オレは聞いてない」 <有効な判断をしていないだけ>

コミュニケーションコストの増加で老化が加速 日経BizGate (2016/10/24)

 「会社の老化は止められない」(2016/11/23) の「コミュニケーションコストの増加は止められない」の項を抜粋したもの。 この本は、至極真っ当なことが書いてあるのだが、素直に認められない年寄りは多いと思う。

 例えば、
 「ほうれんそう」教に毒された管理者が言う「オレは聞いてない」は長く勤めていると一度や二度聞いたことがあるだろう。  しょっちゅう聞いているならその組織はかなり老化が進んでいる。らしい。

 冒頭の記事中に「オレは聞いていない」を可視化した図がある。

Photo

細谷功氏によると

インフォーマルなルートで重要人物には伝わっているが、組織図上で重要な役割を果たしていると思っている人に伝わっていないというのが図の左下の領域である。この状態になったときに「オレは聞いていない」という発言が聞かれるわけである。

 内容より器を重視するのは老化現象のなせるわざで、なおかつ、なぜ連絡が来ないかといえば、「言っても価値がないから」である可能性が高い。

 とすれば、本人としては自分の正当性を主張しているつもりでも、実際は「役割にふさわしい仕事をしていない」ということを自ら広める言動になっている。それに本人が気づいていないわけで、このような喜劇もまた老化のなせるわざといってよいだろう。

らしい。

部下の立場で考えてみる

 自分で判断しかねる案件があった場合、誰に相談するかというと、有効なアドバイスをくれる人や実質的に判断をしている人など、相談する価値がある人だ。 逆に言うと、誰からも相談を受けない人は、相談する価値が無いと思われているということだ。 細谷功氏の指摘は正しいと思う。 

 相談する価値がない人は、指摘はするが建設的な意見は言わないことが多いので判断の参考にならない。 なので相談したくないのが本音だ。 ところが、老化した組織は「オレは聞いていない」とスネる者を無視できない仕組みになっていることが多いので、判断には寄与しない無駄な仕事が増えるのは細谷功氏が指摘するとおりだ。

 日本のホワイトカラーは生産性が低いと指摘されるのは、このような判断には寄与しない仕事に時間を費やしているからではないだろうか。 働き方を改革するには、判断に寄与しない仕事を止めれば良い。 ITシステムなどを導入しなくて良いからコスパは最高だ。 

 「オレは聞いてない」の大合唱になるんだろうな。

上司の立場で考えてみる

 上司といっても多くの人は中間管理職だから部下の側面も持っている。 「オレは聞いてない」という上司に理解を示す中間管理職は少ないだろう。 

 理解を示す人は「オレは聞いてない」と言っている自覚症状がある人くらいだ。 それなのに、上司になってポジションが上がると、なぜ「オレは聞いてない」と言い始めるのか?

 それは、部下や部署の成果が上がるような意思決定をしていないからだ。 能力を超えるポジションに上がったという事情はあるのかもしれない。

 マイクロマネジメント(管理)しかできない者が成果が上がるような意思決定ができないのは組織的に中間管理職にマイクロマネジメントしか求めていないことも原因だろう。

 マイクロマネジメントしかしていない中間管理職が急に、部下や部署の成果が上がるような意思決定をしようと思っても難しいだろう。

 だから、最初に中間管理職になったときから(なる前から)、部下や部署の成果が上がるような意思決定することを優先しなければならない。

これから中間管理職になる人の立場で考えてみる

 中間管理職は上司と部下という2面性があるから、部下の立場として「オレは聞いてない」野郎を黙らせるテクニックは重要だと思う。 「有効な意思決定ができない者は黙ってろ」と正論を言っても始まらない。

 しかし、上司の立場として優先すべきは、有効な意思決定をすること、有効な意思決定ができる能力を身に着けることだ。

 「オレは聞いていない」と言われないことを優先する世渡り上手な人は将来「オレは聞いてない」という管理職になる可能性は高いと思う。

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 「オレは聞いていない」と言われたときに、せめて「コイツアホか」が顔に出ないようにしようと思う。 (^^ゞ


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2018年9月 7日 (金)

「ゆとり教育」 <間違っていたのは親の行動では>

過去の遺物となった『ゆとり教育』 母親世代は「間違いだった」と厳しい指摘
しらべぇ (2018/09/01)

 ゆとり世代は何かと批判されることが多い。しかし、多くは批判する側が志向停止していると思う。 この前出席した会議でも、問題の原因をゆとり世代の気質だと言う人がいたので、「なんでもゆとり世代に原因を求めてはいけない」と発言した。

 ゆとり世代を育てた世代なので、ゆとり世代を否定するのは、自分の育て方を否定すること。つまり、天に唾する行為だ。

 うちの娘1号はゆとりお試し規格、娘2号はゆとりフル規格。だから、ゆとり世代への批判は他人ごとでは無い。

 ゆとり世代を育てた当事者として、ゆとり教育を考えてみた。

【結論】

 詰めこみではなく考える力を付けようとする取り組みは良かった。
 悪かったのは、親世代の対応だ。

【「ゆとり教育」が始まった頃】

 娘2号の授業参観に行ったことがある。算数の授業で先生が教えていたのは、解法はたくさんあるということ。効率良く正解を求める方法ではなかった。 

 親世代は教育を偏差値でしか評価できなかった。自分達が偏差値で評価されてきたからだ。 そして、親世代は偏差値を上げる方法は詰め込んで記憶する方法しか知らなかった。
 だから、親世代は子供達が偏差値で評価されることが変わらない状態で、自分の子供だけ偏差値が下がるかもしれない「詰め込まない教育」を受け入れることがきなかったのだ。

 偏差値が下がってもこの先子供が生きてく上で重要なことを学んでくれたら良いと、全ての親がそう考えたら良かったのだが、自分から変えることができなかった。 囚人のジレンマだ。

 親世代は、学校が詰め込まない分、塾や習い事などで詰め込んでしまった。
塾は、教育機関ではなく私企業だから顧客である親のニーズに応えてくれてくれる。  親のニーズは子供が理解することではなくて偏差値が上がることだ。

 理解することは難しいし、答を憶えるのは気合いと根性だ。優秀な塾は、裏ワザ宜しく効率良く正解を見つける方法を教えてくれる。皆が知ってしまったら裏ワザでは無くなるけど。

【そして今】 

 子供達が受験や就職するようになっても相変わらず偏差値で評価されていたから、結果的には親の戦略は正しかったのかもしれない。 というか、偏差値という評価基準を変えないようにしていたのは親世代だ。

 ところが、今彼女達が直面しているのは時代の変化だ。 親世代が変わらなかったツケがゆとり世代に廻っているとも考えられる。

 親世代は、働き方改革と聞いて「そんなのできねーよ」と言っている。 しかし、ゆとり世代は子供がいても共働きする必要があるから、働き方は改革せざるをえない。 改革を邪魔しているのは子育てが終わった親世代だ。

【今後は】

 ゆとり世代は、親世代と違って、20代前半までの偏差値で人生が決まる可能性は低くなった。 むしろその後どう生きるのがの方が重要だ。

 とすると、必要な能力は、

  • 先生に言われた宿題をこなすことより自ら学ぶ力
  • 記憶した正解の中から答えを探す力より、正解が無い問でも最適解を導ける力

だろう。

 いずれも親世代では重要視されなかった能力だ。

 ゆとり世代は、親世代同じようには生きられない。
女性は母親のように専業主婦になれないし、男性は定年まで同じ職場で働き続けることはできない。そもそも定年という概念はいつまであるのか分からない。

 さらに、彼女達が育てられた時の価値観で彼女達の子供を育てることはできないだろう。 彼女達の子供は人生100年時代を生きるのだ。何が子供の将来に役立つのか予想できない。

【親世代は】

 ゆとり世代は「ゆとり教育」を受け入れるしかなかったので、彼女達に罪は無い。 制度を受け入れられなかったのは親の世代だ。受け入れらないどころか抵抗したのだと思う。

 「これだから、ゆとり世代はっ!」と言わないで、ゆとり世代が新しい価値観を受け入れて変わるのをサポートしよう。 それが親世代から見ると評価できない価値観だとしても。

 彼女達が子供の頃に価値観は多様だということを教えなかったのは親世代なのだから。



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