チョークと黒板があれば授業ができる?
「チョークと黒板があれば授業ができる」という言葉を何度か聞いた。
冗談でも何かの比喩でもなくそう考えている人はいるようだ。
他人に知識を伝えるときに、印刷のコストが高い場合には、チョークと黒板は良いシステムだ。
このシステムでは、教師も生徒も自分の手で書くこと、文字が読めることは重要だった。
50年前の小学校は、印刷はコストは高かった。少量ならば青焼(死語だね)大量ならばガリ版刷りだった。
だから、日々の授業で気軽に使えなかったのだろう。担任の先生がガリ版刷りの学級通信を配ってくれると嬉しかった。
印刷コストが高い場合には、生徒の考える時間を削っても、板書せざるをえなかったのだろう。
今時は毎回書くことを変えていないなら、板書せずPowerPointで作成して投影すると効率的だ。
生徒の反応を見て板書を変えるたいことがあるかもしれないが、共通する部分はあるし、流用できる部分の方が多い。
先生が板書する時間が減ると生徒の考える時間を増やすことができるのである。
つまり、黒板とチョークにこだわる人は、1コマ45分/50分という限られた時間内で、生徒が考える時間を増やそうとしていないのである。
僅かだがICT機器を積極的に使う先生もいる。
しかしである、いくらICTを使ったとしても、1人の教師が多数の生徒に教えるスタイルは150年来変わっていないのである。
これから先求められるのは、生徒が学び教師がサポートするスタイルらしい。
GIGAスクール構想ですべての生徒がコンピュータを持つことになるけれど、多くの教師は150年来続いてきたスタイルのICT化と捉えているようだ。
残念だけど、彼らにとってはこの変化に対応するだけでも大変なことのようだ。
生涯学び続けることが必要になってきた。
若いときに学習した知識や技能だけで最後まで働き続けることはできなくなってきた。
社会の変化に対応するためには、自分一人で学ぶ能力が不可欠だ。
この能力を持たず、新しいことを学ぶことができない中高年には、風当たりが強い。
これまで学校では1人で学ぶ方法を教えていなかったから、一人で学ぶことができない人はどこにもいる。
もちろん学校にも。そのような人が、チョークと黒板文化を守っているのかもしれない。
一人で学ぶことができて、ネットが使えれば、容易に生涯学び続けることができる。
チョークと黒板が悪いわけではないが、一人で学ぶことの重要性と一人で学ぶための技能を教えるべきだ。
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