闘うプログラマー
闘うプログラマー 著:G・パスカル・ザカリー 訳:山岡洋一 日経BP社
デビット・カトラー氏がWindows NTを作ったお話。
当時、MicrosoftがDECからVMSを作ったデビット・カトラー氏を引き抜いたニュースは目にしていた。
移り変わりが早いコンピュータ業界で、デビット・カトラー氏は既に大物だった。
コンピュータ業界に限らず大物を引き抜いて失敗することはよくあることだ。
マイクロソフトのような若い企業と、終わった感があったVMSの組み合わせは違和感があった。
だから、成功しないだろうと見ていた。
当時はダウンサイジングの時代で、汎用機、ミニコンからUNIIXにシフトしていたから、サバー用OSを持っていないMicrosoftにとっては社運をかけた事業だったのだろう。
結果的には、NTはリリースされ、Windowsの皮を被ってやってきた。情シス部門にいたときには NTに手を焼いたのでNTを使いたくなかった。それでも、結局、UNIXワークステーションを駆逐した。
そして、駆逐できなかったLinuxに市場を奪われたが、しぶとく生き残っている。
引っかかったのところは
小さな組織はいかに鋭敏であったとしても、必要な人材をあつめることも、資源を動員することもできない
技術者の世界では、チームは個々人の仕事の価値を保証するものである。
- 大量のリソースが必要なら、大きな組織が必要
- 創造的な仕事では多様性を、保つチームワークが必要
ということだろうか。
これくらいの大きなプロジェクトになると、Microsoftくらい体力がなければ続けることは難しいだろう。
容赦なく能力で評価すれば、否応なく多様になる。
とくに、プログラミンングの世界では、優秀さは国籍、人種、性別、信条、学歴とは無関係だ。
能力第一で評価すると、猛獣のようなメンバーが集まってくるから、メンバーを統率するリーダに不可欠な要素は能力だ。
組織の器はリーダの器と同じと言われる。カトラーだからこそ能力が高いメンバーを集められたのかもしれない。
ところが、PHDを持った者の方が優秀だという信念を持っている者がマネージャになると、優秀さではない要素でヒエラルキーができる。そして、ヒエラルキーは拡大し組織は官僚的になる。
マイクロソフトも例外ではなく、この本に出てくるCairoプロジェクトは頓挫している。
ふと、わが国のデジタル庁はどうかと考えた。
デジタル庁の案件はどれも国家規模の大きな案件だから、デジタル庁でなければなし遂げられないだろう。
ところが、残念ながら官僚的だ。
優秀な、アーキテクトやプログラマーを統率できるリーダがいるのか、プロジェクトメンバーと官僚と橋渡しができる官僚がいるのか?
厳しそうだ。最初からわかっていたことではあるけれど。
最近の投稿
【Yoshiのよしなしごと】【雑誌・書籍】 【Yoshiのブログ】
« テスト研修 | トップページ | どこから手をつけて良いか分からない »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 不格好経営(2024.08.01)
- 心に折り合いをつけてうまいことやる習慣(2024.04.22)
- 会社を正しくデジタル化する方法 <必要なのは経営マインドを持った幹部候補>(2024.03.24)
- なぜ「若手を育てる」のは今、こんなに難しいのか(2024.02.11)
- 苦しかったときの話をしようか <働くことの本質>(2023.12.24)
「よしなしごと」カテゴリの記事
- VTuber学(2024.10.03)
- 広島平和記念式典(2024.09.27)
- プログラミングと「写経」 <バグ対応経験が重要>(2024.10.06)
- 技術者としてよい職場 <技術者の報酬とはなにか>(2024.09.30)
コメント