「わかる」 ということ
畑村式「わかる」技術 畑村洋太郎 講談社現代新書 ISBN 4-06-149809-6
「わかる」ということの意味 佐伯胖 岩波書店 ISBN 4-00-003939-3
畑村先生は、「わかる」とは知識の抽象化といわれる。
佐伯先生は、「わかる」とは既に知っていることの体系化だといわれる。
畑村先生は、学ぶ立場から、佐伯先生は教える立場から書かれておられる。
「単に解法を運用することと理解とは異なる」という点で一致している。
佐伯先生の本は初版が1983年で、ゆとり教育がはじまったころである、なぜ佐伯先生の提言は日本の教育に受け入れられなかったのだろうか?
小学生の頃、元素記号に興味を持ち、担任の先生に聞いてみたら図書室に連れて行かれて「このあたりの本を読みなさい」と言われた。
また、三角形の辺の比と角度について考えたことがある。授業で使う分度器を忘れて、辺の比で角度は計算できるのではないのかと思ったのだ。昼休みの間、考えてもわからないので先生に聞いてみたら「う~ん」としばらく困って「高校に行ったら教えてくれるよ」と言われた。(確かに高校で習った。)
三角関数は先生に言われたとおり高校で習って、公式は覚えたが分かったとは言えなかった。その後無線屋さんを目指したので三角関数から逃げることができず、付き合ってきた。
分からなくても興味があるうちにさわりだけでも教えることはできないのだろうか?と小学校を卒業して40年近く経ってふと思う。
尤、あと3分で午後の授業が始まるという時に小学生が三角関数を教えろと言って来たら誰だって困ると思うけど。
経験的には
「わかる」に秘訣はなくて、「分かる時」が来るまで(学び|伝え)続ける他に方法はないような気がする。
「わかる」は大きな容器に水を汲む作業に似ている。最初は、満杯になりそうにないと感じているが、水が満杯に近づくと、簡単に満杯になりそうだと思う。
これと同じように、「分かる」も最初は全く理解できないことが、ある程度理解が進むと急激に理解が進み「わかった」と思う。
ところが、その喜びも束の間、外側にもっと大きい容器があるのに気付く。つまり全然わかっていないことが「わかり」また学習を続ける。
「わかる」はこの繰り返しだと思う。
親になって娘達に教える立場になり、職場では指導する立場になって思うことは、
教育する立場の人が教育に関して語るとき「分からせる」とか「理解させる」とか使役表現で語ることが多いということである。
ところが、理解力の悪い私としては 「分からせる」とか「理解させる」とかは絶対無理だと思う、なぜならば、自分自身のことを振り返ってみて、「わからされた」ことも「理解させられた」こともないからである。
若い人たちの「わかる」ことに関して私が関わることは僅かであるけれど、彼らの「わかる」瞬間に立ち会うことができたら幸福なことだと思う。
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