分かりやすい説明
分かりやすい説明・文章
- はじめに
- 「分かりにくい」について
- 説明や文章に使用する単語の意味が分からない
- 説明や文章の論理構造が理解できない
- 文章から論理構造を抽出できない
- 説明や文章に使用する単語の意味が分からない
- 説明や文章の論理構造が理解できない
- 原文
「治大國、若烹小鮮。 - 書き下し
「大国を治むるは、小鮮を烹るが若し」 - 加島訳
「大きな国を治めるためには小魚を煮るようにせよ。よくこういう言われるがね。それは、小魚を煮るのにあちこち突っつけば、形が崩れちまう―――そこを言うんだ。」 - 説明や文章から論理構造を抽出できない
- 説明者の理解不足
- 説明や文章作成のスキル不足
- 複数での添削
- 説明者の理解不足
説明者の理解不足は論外である。
- 説明や文書作成のスキル不足
- 複数で添削した場合
- 「分かりやすいについて」
- 誰が分かるの
- 何を分かるのか
- 分かりやすさと正確性は両立可能か
- 分かったつもりにさせる説明
- 誰が分かるのか
- 何を分かるのか
- 分かり易さと正確性は両立可能か
- 説明を受ける者や読者の知識が説明する人や筆者の知識と同等かそれ以上
- 説明者を受ける者や読者が理解のための努力を惜しまない場合であろう。
- 分かったつもりにさせる説明
- 理解しにくいとしても、正確に説明したり、正確な文章を作成する
- 正確でなくても、比喩等を使用して「分かったつもり」にさせる
- 最後に
技術的な説明や技術的な文章を作成する場合においては、専門的な知識が無い者に対して分かりやすい説明や分かりやすい文章の作成が求められていることから、報告書を作成する際や説明を行う際に考慮すべき「分かりやすい」について考察した。
まず、「分かりやすい」の逆の概念である「分かりにくい」について考察することにより「分かりやすい」に必要な要件を明らかにする。
「分かりにくい」については、次に示す3つの典型的なパターンがありそれぞれについて説明する。
説明に使用した単語の意味が分からなければ、説明が分からないのは当然である。
説明において重要なことは、単語の意味だけではなく概念や暗黙の了解も含め、説明者と被説明者が理解・共有することであり、概念や暗黙の了解を共有していなければ、共有していない部分を丁寧に説明しなければならない。
専門用語は一般的でない概念、暗黙の了解を含んでいることが多く、非専門家にとって意味が分からない単語である。
例えば「DRAM」は、「記憶保持動作が必要な随時読み出し書き込みメモリ」と説明されることが多く、非専門家とってはなんとなく分かる気がするが正確な理解ができたとは言えない。なぜならば、「DRAM」という専門用語は、文脈によって異なる概念を含むからである。「貿易摩擦」という文脈では「1980年代政府主導で微細技術を完成させ世界を席巻した。」は暗黙の了解事項だが、「経営のスピード」という文脈では「DRAMは資本集約型産業であり投資の規模と判断のスピードが重要である。」が暗黙の了解事項である。このように「DRAM」という単語は異なる文脈で登場した場合には異なる概念を含んでいる。
専門用語は、分かりやすい言葉に翻訳し平易な文章にするだけでは不十分であり、文脈に応じた概念も説明しなければ理解はできない。
説明に使用した単語は分からないわけではないが、説明の論理構造が理解できないことがある。
例えば、老子「小鮮を煮る」を原文から理解することは難しい。
加島祥造氏が現代詩風に訳している文は確かに読み易くなっており、分かったような気になるが、意味するところの理解は困難である。
「小鮮を煮る」の結論は「放任せよ」ではない。この例のように「分かり易い」と「分かる」は別物である。
説明や文章が難解で論理的構造が抽出できず、説明の趣旨が分からないものである。これは論外であり、次の原因が考えられる
プレゼン技術や文章作成能力は習得できるスキルであるから、経験や学習することにより習得可能である。
典型的な「分かりにくい」は、専門用語を丁寧に説明しようとして、論理構造が崩壊したり、論理構造が抽出できなくなったりする場合である。自分の暗黙の了解(常識)は世界の常識と思っている説明者は、専門用語を過不足なく説明したり、暗黙の了解に頼らない論理構造を組み立てたりすることができないことが多く、「分かりにくい」説明や文章になりやすい。
複数で添削した場合にも多く見られる。個々の添削者に悪気はないのだが、添削者が増えるほど分かりにくくなり、更に「分かりにくい」を超えて「難解」になることがある。
筆者の常識、読者の常識に添削者の常識が加わるため複雑さは倍増どころではない。しかも、自分の常識について考えたこともなく、修正する理由を説明することもなく、なんとなく添削している添削者は少なからず存在する。
添削者が「オレにはちっとも分らん」といえば「分かりにくい文章」になり、過剰な添削になることもあることから、添削者は、説明者の常識、読者の常識、添削者の常識を理解した上で添削しなければならない。
前項で考察した「分かりにくい」の原因を踏まえて「分かりやすい」について、次に示す4つの項目に考察する。
説明する相手や文章を読むであろう読者を予め想定する必要がある。
万人に対して分かりやすい説明や分かりやすい文章の作成が極めて難しいのは、万人が共通して持つ常識や概念が無いからである。
例えば、日本人は災害時においても略奪してはならないという常識を持っているが、海外ではそうでない人たちもいる。日本人の常識が世界の常識ではないため、 世界の人を対象に説明する場合には、説明の内容が日本人の常識に基づくものでないかについて考慮し、日本人の常識に基づくものであれば、別に説明する必要がある。
予め説明する相手や読者を想定し、対象を絞ることにより想定した対象が共通して持っている常識については説明する必要が無くなり、簡潔な説明ができる。
説明の結果、理解を求める項目を明確にする必要がある。
説明や文章において理解というゴールを予め明確にすることで、説明を受ける者や読者の理解が容易になる。説明を受ける者や読者にとって、ゴールの見えない説明を聞くのは辛い。
説明の全体像とゴールを示さない説明は論理構造を掴み難く。先頭から順に詳細な説明されると論理構造が理解できず、全体が理解できなくなる。(論理構造の森で迷子になる)
分かり易さと正確性が両立できるのは、
例えば、小学生に微分・積分を正確に説明しようとすると高校1年までの算数、数学の内容を説明する必要があるが、それを小学生が正確に理解するのは、教師を職業とする者が説明したとしても極めて困難である。
説明される者や読者の知識と説明者や筆者の知識がかけ離れている場合には、短時間で分かりやすさと正確性とを両立することは極めて困難である。
説明を受ける者が理解のための努力をするならば、分かりやすく正確な説明が可能であるが、長い時間が必要である。
説明を受ける者と説明者の知識がかけ離れているような場合には、「○○は××だと思いねえ」のような説明をすることがある。これを目立たないようにやると「分かったような気がする」説明になる。
専門書に限らず書籍を読んでいると、「分かった!」と思うことがある。しかし、更に思考を深めると、最初の「分かった」は全く分かっていなかったことに気付く。つまり、最初の「分かった」は錯覚で「分かったつもり」になっているだけである。この状態を利用して、説明を受ける者や読者が本当に分かっていなくても「分かったつもり」にさせると、説明者を受ける者や読者にとって「分かりやすい」と思える説明や文章になる。ただし、あくまで「分かったつもり」であるから、相手が真に理解しているわけではないことに注意が必要である。
難解で理解が困難な内容でも「分かったつもり」にさせて、相手に自習を促し、その後の説明効果を増大させ、結果的に「分かる」状態まで導くことも可能であるが、「分かったつもり」から「分かる」までのケアが必要であり、長時間が必要である。
説明される者や読者の知識と説明者や筆者の知識がかけ離れている場合や、説明される者や読者が理解のための努力をする用意が無い場合には、分かりやすく、なおかつ正確な説明は諦めて次の選択が必要である。
「分かりやすい説明」が求められている背景には、説明を受ける者や読者が 「素人にも分かるように説明してよ」という態度で、理解のために努力する用意が無い場合にでも、説明者や筆者には分かりやすい説明や文章が求められることが一因であろう。
作成する文章によっては、読者を想定して「分かったつもり」にさせる文章を作成することが必要になる場合がある。しかし、技術的報告書のように読者に対して真に理解を求める説明・文章においては、「分かったつもり」にさせてはならない。ましてや「分かったつもり」にさせるために正確性に欠けることがあってはならない。
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