知性の磨き方
知性の磨き方 林望 PHP新書
「知性を磨く」田坂広志、光文社新書と間違えて、ポチっとしてしまったので読んでみた。
国文学者で小説家の林望氏が知性について書いたエッセイ。
「学問の愉しみ」で林望先生はいう
いい先生というのは、「方法」を教えてくれる先生であって、知識を教えてくれる先生ではないということに尽きるでしょうね。
若い頃、直接教えてくれない師について研究に没頭していたこと。その後大学教授として学生に教えていただけに重みがある。誰かに教えられたことではない。
この考え方は、学問を行っている人、研究者、職人には良く当てはまる。
しかし、職業訓練の先生(講師)はちょっと違う。
研究者、職人に教える先生(親方)は、はできる者、自分で学ぶことができる者を伸ばせばよい。林望先生の言うように歩留まりは悪いが先生(親方)を超えるものが出る。
一方、職業訓練の講師の場合はどうかというと、最低限のことはできるようにしなければならない。理解していない場合には、マニュアルでもなんでも与えて。最低限の作業ができるようにする必要がある。そうしなければ皆おまんま食い上げだ。
このあたりが、学者の先生と職業訓練の講師との根本的に異なる部分だ。かといって、自ら伸びる者に対してもマニュアルを与えて終わりにしたいわけではない。職業訓練の講師はそれなりに葛藤があるのだ。
マニュアルをもらえばOKという者は多く、明日から使える手法はメモを取りながらちゃんと聞くけど、「その手法を発見する手法を教えて欲しい」という、メタな質問をする者は今も昔も少ないような気がする。
もっとも、講師も「その手法を発見する手法」を教えることはとても難しく、自ら学び成長できるが者が自ら「その手法を発見する手法」を発見するのを見守ることしかできないのだが。
「自ら学び成長できる人」の割合が今も昔も変わっていないとしたら、
問題は、
昔のおじさん(先輩)達は、「自ら学び成長できる者」を見つけて成長を見守っていたのだろう。年代の近い人で「自ら学び成長できる人」を何人か知っている。
一方、今のおじさん(自分)達はどうだろうかと考える。「自ら学び成長できる人」を見つけて成長見守っているのだろうか?「最近の若い者は...」と嘆いているだけではないだろうか?
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