NASAより宇宙に近い町工場 <「どうせ無理」廃絶宣言!>
NASAより宇宙に近い町工場 植松 努 ディスカヴァー・トゥエンティワン
FBで植松努氏が講演のことを書いた投稿を読んだ。
植松努氏は、著書も読んでいて話を聴きたいと思っている人は、話を聞かなくていい。 それより強制的に集められている場所(つまり学校)で話したいのだという。
人前で話をすることがあるが、強制的に集められている場所で話すのは、はっきり言って苦手だ。寝ている人を見るのも、眠気を必死でこらえている人を見るのも、興味の無い話しかできない自分も嫌だ。
植松努氏がなぜ、そのような場所で話したいのかと思い、この著書を読んでみた。
植松努氏は「どうせ無理」を無くしたいのだという。
無理やり集められた場所には「どうせ無理」と思い始めている生徒と「どうせ無理」と教えている大人がいるから、学校で話したいのだろう。
諦めた人は諦めていない人が羨ましく、妬ましいので、諦めさせようとする。それが、「どうせ無理」という言い草だ。「仕方ない」は受動的だが、「所詮××だから」や、「どうせ無理」は能動的だから他人に与える悪影響は大きい。しかも、諦めていない人を見付けるとわざわざ近寄ってきて「どうせ無理」攻撃をしてかけてくる。(為末大氏も著書「諦める力」の中で指摘している)
自分の周りを見渡してみると、最近の若い人達だけではなく失敗を恐れる人は多い。全員がビビりではないと思うのだが、「どうせ無理」と自ら行動しないし、表だって発言しないのだ。(飲み屋では饒舌だったりする)
きっと、「どうせ無理」な人達が全力で活動しているのだろうか。
しかし、良く考えると、「どうせ無理」は誰の心にもあるのではないだろうか。気が付くと、直接言わないにしても、間接的に、遠回ししに「どうせ無理」と言っていることがある。
自分が既に検討して無理と結論付けた問題の再検討が始まったときや、自分の専門分野での知識を誇示したいときなど、いずれにしてもネガティブな感情だ。
「どうせ無理」を一切言わないのは、どうせ無理だから^^) 「どうやったら出来るんだろう」と言うようにしよう。
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