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2015年8月

2015年8月31日 (月)

修理(3)

以前修理した赤外線ヒーター(修理2題(2014/06/02)がまた点かなくなった、とかみさんが言うのでまた修理。

2

ACコードをピーンとする人達が使っているのでまた断線かと思ったが、セオリーどおり電球から。

1

抵抗を測ると無限大だ。フィラメントを覗いてみると、右側の根本で断線している。

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300Wの赤外線灯でDAINICHI ERETORICと書いてあるのでネットで検索してみたが見付からない。赤外線灯は珍しくないのだが口金が太い(E39)タイプが見付からない。

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取説にメーカーの連絡先があるはずだが、取説は見たことがないのだそうだ。

立派な銘板があったので山本製作所をネットで調べるとこれまた見付からない。

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住所を調べたら「有限会社コーエー」がヒットした。

ダメもとで「有限会社コーエー」に電話してみると「山本製作所」と同じだというので赤外線灯の入手方法を聞いたら、注文すると送ってくれるとのこと。

修理といってもネットで連絡先を調べていただけだ。

2015年8月29日 (土)

「×」を恐れる文化

「×」を恐れる文化  Yoshi品質研究所

第1072回
最近、警察や銀行を舞台にした小説をよく読むのですが、描かれている背景としてよく登場するのが「役所体質」のようなもの。
具体的には「新しいことにチャレンジして失敗するよりも、無難にこなして失敗しないほうがいい」と言う考え方。
つまり「×」がつくことを恐れる減点法評価の話がクローズアップされるものが多いように感じます。
これ、一般企業でも最近は多いように思うのです。その結果「判断しない」から「責任はない」、だから「僕のせいではない」という考え方が蔓延する現象です。
確かに失敗すると睨まれるのは当然。でもその前に何も挑戦しないほうがもっと睨まれるべきだと思うのです。特に日々革新と言えるほど、技術や環境は大きく変わります。その中で「保守」だけでは朽ち果ててしまいます。
「×」を恐れる文化を作り上げているのが、今の経営者や管理職だとすれば、「×」を恐れない文化に育てられるのも今の経営者や管理職だと思います。

 実感では、「×」を恐れる文化から、「×」を恐れない文化に育てるには、少なくとも「×」を恐れる文化を作り上げた倍以上の時間が必要なのだろうと思う。

 今の経営者や管理職が2年で作り上げたのなら戻すのに最低4年は必要だろう。簡単に変えられないような仕掛けを作っていたりするともっと時間がかかる。

 組織の風土にも慣性の法則が働く。組織が大きくなると風土は簡単には変えられない。朝令暮改の社長さんは尊敬する。

 「×」を恐れない文化に育てるのに時間がかかったら、簡単には「×」を恐れる文化に戻らないだろう。逆も真なりだ。

 自分がいる間に「×」を恐れない文化が育たなくても大丈夫、きっとできる。

そのためには、変えようとする「魂」を残すこと。

「魂」が残っていれば必ず変えられる。


減点主義と積極性(2013/02/02)  ← この頃はスネてる。

2015年8月27日 (木)

130,000アクセス

13万アクセスを超えた。
130kaccess

アクセス累計をグラフにしてみた
Access

横軸は年月、縦軸(左)はアクセス数累計の累計、縦軸(右)は日数

青は累計で、累計1万アクセス以降ほぼ同じペースで増加している。
赤は1万アクセスに要した日数(右軸)で、1万アクセスあたり約100日を要している。

最近のトップ10は、

1位:hontoで電子書籍を購入
2位:FRISK詰め替え
3位:AVR CP/M
4位:VJA
5位:ロジアナ(2)
6位:USBワンセグチューナでSDR
7位:IchigoJam(3) <超小型ARMマイコン基板>
8位:IchigoJam(2)
9位:ゴリラの冷や汗 <4つの個性がチームを動かす>
10位:IchigoJam(4) <メモリダンプ・プログラム>

1位~3位はほぼ変わらない。最近IchigoJam関係が増えた。

2015年8月25日 (火)

昇格する!論文を書く

昇格する!論文を書く 宮川俊彦 角川書店

M

 10数年前に文章の書き方本を読み漁っていた時に読んだ本。

 一見How To本のようなので躊躇していたのだが、近くの本屋にある書き方本を全て読んでしまったので、しかたなく読んだ。

 ところが、How To本にありがちな採点する人にウケるテクニックが書いてあるわけではない。むしろ、論文を書く人より論文を読んで採点する人に参考になると思う。

 この本は読んだ後に昇任試験を受ける後輩にプレゼントしたので手元にはない。
ふとこの本を思い出し、電子書籍版を探したら、なんと\390だった(売れなかったのか?)のでもう一度読んでみた。

 この本の中で宮川俊彦氏が論文を採点している。僅か600字足らずの論文から人物像が見えてくるというのだ。例えば、教養土壌はあるが自信がないとか、自部署をどのように改革するかなどのビジョンがなく、自己満足度が強いなどだ。

 初めてこの本を読んだときには、わずかな文章からから書いた人の性格や仕事に対する取組みやビジョンまで分かることに驚いた。

 それまで小論文を書く際には、論文の構成と、論理構造が破たんしていないこと、しか気にしていなかったので衝撃的だった。宮川俊彦氏が採点するなら、論文試験の事前対策はできないと思った。

 10数年が経過し、人が書いた昇任試験の論文を読んでみると、宮川俊彦氏のレベルにはほど遠いが、文章の裏から分かる部分があることに気が付いた。

 特に自分が深く考えたことがある分野については、キーワードを散りばめた文章なのか、真剣に思考したことがあるのかが分かる。

 例えば、
「著しく頑張った部下に対しては、賞を与えたり昇任に関して尽力するなど、頑張りに応じた処遇をすることで部下のモチベーションを高める」
という文を読むと、

【部下の評価】
 頑張りと能力・業績の関係、能力・業績と処遇の関係について思考が足りない。
「頑張り」を評価しているが、頑張り=能力・業績ではない、また業績は賞で、能力はポストで報いるべきであるから、将来能力のない部下を昇任させてしまう恐れがある。

【マネジメント】
 部下に成果を上げさせるために行動するというマネジメントの意識がない。
頑張りを業績になるようにするのが上司の役割であり、自分も含めた自部署の成果を上げるというマネジャに必要な意識がない。

【モチベーション】
 モチベーションを高める方法としてインセンティブしか知らない。
外的動機付けの効果は限定的である。自身が内的動機付けでなく外的動機付けで働いているのではないか。

【改革力】
 表彰基準、昇任基準の理想、理想に向けた改革について全体的な観点が無い。
表彰基準、昇任基準に関する中間管理職の裁量は限定的であり、中間管理職の裁量を超える問題について、改革を進めようという意思が感じられない。

【人物像】
 「自分は頑張っているのに評価されていない」と思っており、部下に同じ思いをさせたくないと考えている。しかし、個人や部署の成果、組織の改革に対して主体的に行動しておらず、周囲を批判しているのではないか。

【昇任すると】
 部下に過度な頑張りを強要し、人海戦術で部下を疲弊させるが、上司に対しては主張できない中間管理職になる恐がある。

などが推測できる。

 推測したことは、自分が悩み、本を読み、自分の考え方は正しいかと自問自答してきたことである。ということは、自分が読んだ本の数だけ、自分で考えた時間だけ、小論文を書いた人の人物像が想像できるようになるのではないかと思う。

 一方で、エライ人の中には、体裁がよくウケ狙いの論文を「良くまとまっているね」などと言う人や、誤字脱字しかチェックしない人がいるのも事実なので、運が良ければ、自分に向き合わないで「かきかた」の練習で合格してしまう。

 自分に向き合わないエライ人が自分に向き合わない人を昇任させる。負の連鎖だ。

 まず、論文の採点者には小論文を書かせて、他人を評価するに値する見識を持っているかを見極めるべきだ。

 エライ人ほどの影響力が無く、論文の採点者でもない自分に何ができるかと考えた。
先ず、これから試験を受けるであろう人たちに向けて、

「自分に向き合っていない採点者の存在を当てにせず、あえて王道を進もう。」

と言うことだ。


2015年8月23日 (日)

はっきよい

KITTEに土俵ができていた。
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今年の夏のイベントは「はっきよい」だって。
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8/29(土)には、横綱土俵入りや取り組みがあるらしい。(土曜日だからなぁ)

ブルガリア出身琴欧州の化粧まわしが展示してあった。
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スポンサーは明治だ。

2015年8月21日 (金)

人を見る目がない人

人を見る目がない人 植木理恵 講談社
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 最近読んでいる本はHowTo本が多いような気がする。この本もHowTo本かと思いながら読んだ。

 この本は、他人を判断するときに誤る原因を心理学者の植木理恵氏が解説した本で、人を見誤る原因は詳しく説明してあるが、見誤らない方法については書いてないのでHowTo本を期待して読むとがっかりだったりする。 植木理恵氏の結論は、人は他人の評価を誤る可能性が高いということ。

あとがきには

 しかし、相手のことを本当に深く見抜こうとすれば、いかにこちらが権威ある面接官であろうと、社内の大きな論争の最中であろうとも、「もし自分が彼の立場だったら、今こんな気持ちだろう」 「相手はこういう気持ちで、この発言をしているのだろうな」 というように、自分の感情の渦にとらわれることなく、相手の視点で状況を鑑みるようになる。

相手の行為について一方的に判断を下す目線だけでなく、先ずは無条件に、相手のことを心の中で肯定してみるのだ。どんな憎たらしい相手であっても、そこは我慢である。「彼はこういう気持ちなんだろうな。なるほど、なるほど」と心の中で徹底的に共感するのだ。

これは遠回りのように見えて、実はそうではない。相手の心の機微を体感し、思惑を掌握し、さらに相手をのせて本音をしゃべらせるための究極の近道である。 相手視線と自分目線という二つの目を意識している限り、生得的なケチ脳はかなり抑制される。

とある。

 相手の立場になって考えるって、ごく普通の結論だ。

 非言語コミュニケーションが苦手なので、安易にHowTo本に頼ろうとしたのだが、心理学の見地からも、ごく普通の方法が良いのだそうだ。

 「相手の立場になって考える」ことが苦手な人はどうすればよいのだろうか。

2015年8月19日 (水)

論文試験 <まず、自分に向き合うこと>

 昇任試験の季節がやってきた

 ウチの昇任試験の論文試験は、自筆、辞書持ち込み不可で初見の問題に対して1時間で小論文を書くというもの。

 今時、自筆、辞書持ち込み不可もなかろうという意見もあるが、「論」や「かきかた」より論理的思考能力が問われる試験だ。短時間で初見の問題について論じなければならないので、普段考えていること、普段行動していることが顕著に表れる。

 つまり、問題に対する解決策の優劣よりも、普段の思考様式、行動様式、が顕著に表れる。

 有効な試験対策は無い。

 それでも、受験する人には、事前に問題を想定して試験時間内に小論文を書いてみるように勧めている。

 受験対策ではなく、「自分に向き合うこと」が重要だからだ。

 建前と本音、理想と現実、仕事とプライベートの狭間で揺れながら、論文を書いてみることで、何故昇任試験を受けるのかという根本的な課題を自問自答することができる。

 そして、自問自答することで、昇任試験を受験する目的が、金銭か地位か仕事かなど自分に向き合うことができる。

 自分に向き合うことをしないまま合格した人は、「合格するつもりはなかったのに受かってしまってね」など嘯く。自分に向き合うことができない人は幹部にはふさわしくないと思う。上司が選べるなら自分の上司にはしたくない。

 若い頃、上司に昇任試験受験を勧められたときに、何故受験しなければならないかを訊ねたが、納得できる説明してくれた上司は少数だった。多くの上司は受験する目的として、金銭、地位、仕事のいずれかしか言わない。その上司の価値観そのままだ。

 他人の価値観を強制されるのはイヤな性格なので、いつも醒めて聞いていた。価値観が違うので仕方がない。 露骨に給料とか肩書とか下世話な話しかしない上司もいた。若かったこともあって憐みを感じながら聞いていたのだが、思っていることが分かり易く表情に出るタイプなので、上司を怒らせた。

閑話休題

 歳をとって思うのは、
 自分の中にある「下世話なこと」と「理想的なこと」そのどちらか一方を捨て去ることはできないということ。

 いつも給料や肩書を気にしている人でも組織のあるべき姿は考えているし、浮世離れした理想論しか言わない人でもボーナスのことを考えていたりするものだ。

 であれば、自分に向きあって、自分の中を整理することが重要だ。

 昇任試験は、自分に向き合う良い機会である。理想と現実に折り合いをつけ、組織と自分との関係を整理することで次のステージに進める。もちろん、向き合った結果、受験しない(合格しない)という選択肢もある。

 自分に向き合ったことがある人が論文を読むと、受験者が自分に向き合ったかどうかは分かる。

 まず、自分に向き合っている人が論文試験の採点をするようにしてほしいものだ。


2015年8月17日 (月)

人材育成 <~させるとか信賞必罰は胡散臭い>

 人材育成を語るときに、使役表現(~させる)と外的動機付け(信賞必罰)を使うと何故か胡散臭い。「~させる」と信賞必罰を使わないで語ると麗しい解決策は語れないのだが、胡散臭さは減り、まじめに考えました感は増える。

させる表現

 「させる表現」を使う人は、「自己啓発させる」とか「修得させる」などが、人材育成の重要な部分を占めていたりする。

 「させる表現」を使う人が人材育成する場合には、育成される人に何らかの行為を行わせなければならない。育成される人が他人の命令に従うのが好きならよいが、他人の命令に従うのが嫌いな人の人材育成できないことになる。(σ^^)みたいなヒネクレものは育成してもらえない。構わないけど)

動機付け

 人の成長には動機付けが重要だ。
人は、詳しく知りたい、修得したいと思えば成長するものだ。しかし、環境が同じであっても、知ろうとしない、修得しようとしなければ成長することはない。
つまり、人の成長を促すのは内的動機付けが重要だ。

 外的動機付けしか知らない人がいるようで、
人の成長でも外的動機付けが有効だと思っている人がいて、この人たちは決まって「信賞必罰」と言う。
成長した人に報償(アメ)を与え、成長しない人には罰(ムチ)を与えるというものだ。

人間は現金なもので、信賞必罰の大義の下に人に鞭を振るうことはできるけど、自分が鞭を振るわれるのは耐え難いと思うものだけど。

知識・技能の、習得、修得

 基本的なレベルの知識・技能の習得は教育、訓練の方が効率が良いのだが、更に上のレベルの知識・技能の修得は学習、修行が必要である。

 「教育・訓練」と「学習・修行」との違いは「教育・訓練」が他動的であり、「学習・修行」は自動的であるということ。

 つまり教育・訓練は外的動機付けにより「無理やりやらせる」ことが可能なのに対して、学習・修行は内的動機付けにより「自らやる」という点で大きく異なる。

 人材育成という切り口で考えると、教育・訓練は必要である。必ず持っておかなければならない知識・技能があるからだ。学校教育に例えるなら例えるなら義務教育である。

 このレベルまで教育・訓練すると、指示どおり仕事ができるようになるが、一人前とはいえない。 自ら考え、自分で判断して仕事ができるようになるためには、更に上のレベルの知識・技能を修得しなければならない。しかし、上のレベルの知識・技能の習得は教育・訓練では困難で、自ら学習・修行して修得しなければならない。

 高い知識・技術を持っている人に「あなたの持っている高い技術はどうやって身に付けたの?」と訊ねてみるとよい。「自分で勉強しました」と言うはずだ。
「○○さんに教えてもらいました」と言う人の知識・技術は大したことはない。

人材育成できる人

 業績だけを評価して昇任させたり、知識・技能だけを評価して教育担当にしたりしがちだ。 しかし、人材育成を語るときに、使役表現(~させる)と外的動機付け(信賞必罰)を使う人は、人材育成のごく一部しか考えていない。ので、このような人がマネジャがになると、自分以上の知識・技術を持った人を育てられないのである。

 つまり、

 業績だけ評価して昇任させると、人が育たない。

 知識・技能だけを評価して教育・訓練担当にすると、人が育たない。 

ということだ。 

 自分以上の知識・技術を持った人を育てなければならないと考える人は、必然的に内的動機付けを考える。内的動機付けの方法は外的動機付けの方法に比べて明確ではないし、外的動機付けしか知らない人にとっては異次元の思考だけど、人材育成について深く考えていることは分かる。

 人材育成できる人を探そうとするならば、

 人材育成を語るときに、使役表現(~させる)と外的動機付け(信賞必罰)を使わない人

は、1つの指標となるのではないか。


なぜマネージメントは壁につきあたるのか:(2012/06/14)

2015年8月14日 (金)

人の好き嫌い <嫌いな人にこそ「ありがとう」を言う>

 自分の性格を考えると、人の好き嫌いがはっきりしているほうだと思う。
しかも、分かりやすく顔や態度に出てしまう。
でも、嫌いな人が多いというわけではない。

 知人と飲んだときに、「好き」と「嫌い」の2つの分類しかない人がいることを始めて知った。

 自分はというと、「好き」「嫌い」「どちらでもない」(無関心)の3つの分類で、「どちらでもない」が大部分(80%以上)だ。 かみさんは「アンタは他人に興味が無いんだヨ」と言う。

 おそらく、「好き」「嫌い」の2つの分類しかない人のイメージはこんな感じだろうか?
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一方、σ^^)の「好き」「嫌い」「どちらでもない」のイメージはこんな感じ。
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田坂広志氏は「人生で起こることすべてよきこと」(2015/08/06)
夏まゆみ氏は「エースと呼ばれる人は何をしているのか」(2014/08/08)
嫌いな人にありがとうと言えというのだが、はっきり言って自身がない。

 「好き」「嫌い」だけの人は、嫌い度が連続しているので「ありがとう」と言うことで「嫌い」が薄れていくのだろうか?
「ありがとう」をたくさん言うと「嫌い」が「好き」になるのだろうか?

 σ^^)の場合は「ありがとう」と言うと「どちらでもない」(無関心)になるのだろうか?
無関心になったら、それ以上「ありがとう」を言うこともなくなるのだろうか?

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 などと、酔っ払って帰る電車で考えた。

2015年8月13日 (木)

夢をかなえる。 思いを実現させるための64のアプローチ

夢をかなえる。 思いを実現させるための64のアプローチ 澤 穂希 徳間書店
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 なでしこジャパンは2015のカナダW杯で惜しくも2位だった。

 この本はなでしこジャパンが2011年のドイツW杯で優勝した後に書かれた本で、澤穂希氏は当時キャプテンだった。

 その後、宮間あや氏にキャプテンを譲った。宮間あや氏のキャプテンとしての言動、インタビューなどを見ていると、宮間あや氏の資質はあるにしても、澤穂希氏の影響を受けたのだろうと思う。

 澤穂希氏は自分のことを感覚のプレーヤーと思っており、指導者には向かないと書いている。今後の進路に興味があるところだ。


澤穂希氏は2015/8/8に入籍されました。おめでとうございます。
http://inac-kobe.com/news/1505

2015年8月12日 (水)

情報共有(6) <理想的なケース>

階層的な組織の情報共有について考える。

ありがちな2つのモデルと理想のモデルを考えてみる。
(左:ありがちなモデル1 中:ありがちなモデル2 右:理想のモデル)

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前提

  • 情報とは
    「判断を下したり行動を起こしたりするために必要な、種々の媒体を介しての知識」(広辞苑に倣う)
  • なぜ「情報共有」が必要か?
    組織内の「情報」を有効利用して、より多くの成果をあげるため。

簡単に言えば、「成果を上げるために、組織内の知識再利用すること」である。

理想的なデル

 1

 ありがちなモデル1ありがちなモデル2では「情報共有」は困難である。そして、最後にこのモデルに行き着く。

 シンプルに「情報」を持っている者が「情報」を提供し、必要な組織がその「情報」を利用する。このモデルでは、上位階層、下位階層の区分は組織管理のため存在するが、「情報共有」に上位、下位の区別は無い。つまり、全ての組織が情報を利用する権利を有し、情報提供の義務を負う。実にシンプル。

実際は

 残念なことに、このモデルは階層的な組織とはマッチしない。マネジャや管理者はこのモデルを構築できないのだ。

 マネジャや管理者の存在は組織構造が前提だから、彼らが階層構造に依らない情報共有構造を積極的に構築するのは階層的な組織の否定に繋がる。そして、階層的な組織構造を否定するのは、自分のポジションを否定することに繋がる。

 一方、現場レベルで「情報共有」の意識がある者の間ではこのモデルでの運用が可能だが、非公式感(アングラ感)が拭えない。現場レベルでも階層型の組織を意識していて、情報は、ありがちなモデル1のルートでなければ流通できないと思っているからだ。

 また、「人の褌で相撲を取る」輩はいるので、このモデルが成立するか否かは、その組織のモラルにかかっている。人の褌で人を出し抜こうとする風土、その風潮を良しとする風土がある組織でも無理である。つまり、目先の報酬にとらわれる組織では無理である。

 その他にも問題を挙げればきりがない...

図のモデルの問題は

  1. 階層的な組織の管理者はフラットな構造を作ることに心理的障壁があること
  2. 現場レベルで実現すると非公式感があるから情報の提供に心理的障壁があること
  3. 情報を提供した者にメリットがないこと

である。

 具体的な行動を起こさなければ問題は解決しないのだが、簡単に解決できそうにない問題にたどり着いてしまった。(思考が発散気味になっている。)

 しかし、諦めているわけではない。 

(たぶんつづく)


2015年8月 9日 (日)

将来に亘る意思決定 <意思決定の責任>

 将来に亘る意思決定をするなら、その意思決定による責任を将来取ることができなけれなならない。

 自分自身に関する意思決定ならば、将来にわたって責任を取ることはできる。しかし、組織の将来にわたる意思決定の場合は、意思決定した者が将来責任を取れるとは限らない。
そのような意思決定は無責任だ。

 例えば、退職まで1年しかないのに5年先のことまで意思決定するようなものである。
1人で意思決定するのではなく、少なくとも5年先に責任がとれる者を意思決定グループに加えるべきだ。

 退職する直前に責任があるポストに就くような組織では、その責任者の意思決定は期待されていない。特に反対派は、意思決定した者が辞めるのを待って、意思決定を覆そうとする。

 将来に亘る意思決定を行う者は、その意思決定を 遂行して退職するべきだと思う。

 そう考えると、窓際システムも捨てたもんじゃない。

2015年8月 6日 (木)

人生で起こること すべて良きこと 逆境を越える「こころの技法」

人生で起こること すべて良きこと 逆境を越える「こころの技法」 田坂広志 PHP研究所

 

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  経営者として大成するには、「生死の体験」が必要というのは別の本でも読んだ 。
「生死の体験」を通じて得る「生死観」が重要なのだと。

 「生死の体験」が必要というのは、簡単に口に出せることではない。少なくとも、「死ぬかもしれない」と思った経験が無ければ口には出せないと思う。

 しかし、簡単に「生死の体験」はできない。「なぜ働くのか」では想像せよとある。「きけ わだみつのこえ」を読んで想像せよと。

 田坂広志氏の「生死の体験」は実経験なのだろう。そして、自らの実体験の紹介は、誰もが容易に経験できない体験を想像するための配慮なのだろうか。

 田坂広志氏は、「人を好きになる」ということは「感情の問題」ではなく「意志の問題」だから

 好きになれない人に対しては
心の中で、その人の顔や姿を思い浮かべ
だだ、「ありがとうございます」と祈る
それだけで「嫌悪感」は薄らいでいく

という。

夏まゆみ氏も「エースと呼ばれる人は何をしているのか」(2014/08/08)

ムカついている相手にこそ「ありがとう」を伝えなさい
自分に辛苦をもたらす人間こそ、自分を成長させてくれる恩人だからです

という。

 う~ん...まだ修行が足りないのだろうな。 < 自分

2015年8月 4日 (火)

情報共有(5) <ありがちなケース2>

 階層的な組織の情報共有について考える。

ありがちな2つのモデルと理想のモデルを考えてみる。
(左:ありがちなモデル1 中:ありがちなモデル2 右:理想のモデル)

123

前提

  • 情報とは
    「判断を下したり行動を起こしたりするために必要な、種々の媒体を介しての知識」(広辞苑に倣う)
  • なぜ「情報共有」が必要か?
    組織内の「情報」を有効利用して、より多くの成果をあげるため。

簡単に言えば、「成果を上げるために、組織内の知識再利用すること」である

ありがちなモデル2

 1

 このモデルは、「情報共有」と「情報公開」・「情報提供」の区別ができていない人が思い描く情報の流れである。

 モデル1で「情報共有が必要」だと気が付いた上位階層の人が、情報を集約することを始めてお手軽にやってしまう。

「共有」って何?

 「共有」とは広辞苑によると「二人以上が一つの物を共同して所有すること」である。
つまり、「情報共有」では同じ情報を上位階層と下位階層がどちらも所有していることが重要である。「共有情報」の管理・運営については上位も下位もない。「情報共有」のコストが低くなるようにすべきである。

 ところが、上位階層の人達も下位階層の人達も、階層型組織という前提から逃れられないので、情報は上位階層に集め、上位階層が管理しなければなければならないと思い込んでいる。

上位階層が管理することのコストについて検討していないことが多い。組織上、上位階層でなければ会計作業ができないという制約があることと、「情報共有」における、上位・下位を混同してはいけない。

 このモデルにおいて、

  • 上位階層に集約された情報を下位階層が使用するのは、上位階層による下位階層への「情報公開」である。
  • 特定の下位階層に対する「情報公開」は、上位階層から下位階層への「情報提供」ともいう。

いずれも「情報共有」ではない。

 言葉遊びではなく、共有している情報は誰かから貰うものではなく、誰かに与えるものでもない。共有している人達全てのものだから、誰に断ることもなく、好きな時に使ってよいものだ。

 このモデルを「情報共有」と称する人達は多い。議論がすれ違うことが多い原因は「共有」の認識が違うからだと思う。

「情報公開」ではダメなのか?

 「情報公開」の方法はITを使用すると安価に実現できる。(情シス部門の障壁が無ければ!)ITC業界にいるので、小規模なシステムなら自前でサーバを構築することも容易だ。(情シス部門の障壁が無ければ!)

 問題は、金物・箱物ではなく、このモデルでは、「情報を提供する側」と「情報を提供される側」に分かれることである。

 「情報を提供される側」にいる人達は、「情報を提供する側」に「情報共有せよ」と言いながら「情報公開」を迫る。ところが、公開すべき情報がないことは多い。

 多くの人が、自分は情報を提供していないが、自分以外が提供した情報が集約してあると思っている。しかし、思うほど情報は集約されていないのである。(人の褌で相撲をとるのは人の常)

 モデル1の「報告」を集約すべしという意見もあるが、先に述べたように、下位階層で利用できる「情報」でなければ公開する意味がない。

 「情報」を組織の外から調達してくる方法もあるが、外部から調達した「情報」は費用対効果が問われるので、効果の測定が困難な「情報共有」の枠組みには乗せず、効果の測定が容易なモデル1の「指示・通達&報告」システムに乗せることが多い。 

 つまり、「情報公開」がダメなのではなく、このモデルでは流付させるべき「情報」が集約されないのである。

図のモデルの問題点は

  1. 下位階層は情報が提供されると思っている
  2. 上位階層は箱物を作れば良いと思っている
  3. 誰も「情報の集約」を考えない

である。

 このモデルの問題点は先に述べたように、「情報を提供する側」と「情報を提供される側に分かれることだ。 「情報共有」においては、全員が「情報を提供する側」であり「情報を提供される側」である。つまり、「情報を提供されるだけ」「情報を提供するだけ」という存在はあり得ないのである。

 「共有すべき情報」の多くは、成功事例、失敗事例、ノウハウなど、組織内にあることが多く、「情報の集約」ができないこのモデルでは「情報共有は」困難である。

結論

 全員が「情報を提供する側」だと認識しなければ「情報共有」できない。

理想のモデル につづく


2015年8月 2日 (日)

情報共有(4) <ありがちなケース1>

 階層的な組織の情報共有について考える。

ありがちな2つのモデルと理想のモデルを考えてみる。
(左:ありがちなモデル1 中:ありがちなモデル2 右:理想のモデル)

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前提

  • 情報とは
    「判断を下したり行動を起こしたりするために必要な、種々の媒体を介しての知識」(広辞苑に倣う)
  • なぜ「情報共有」が必要か?
    組織内の「情報」を有効利用して、より多くの成果をあげるため。

簡単に言えば、「成果を上げるために、組織内の知識再利用すること」である。

モデル1

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 このモデルは、「情報共有」について深く考えていない階層型の組織に良くある情報の流れである。このモデルにおいて上位階層、下位階層の立場から考えてみる。

上位階層の立場では

 上位階層は下位階層に対して「指示・通達」し、下位階層から上位階層に「報告」する。
このとき、下位階層1から上位階層に対する「報告」は上位階層にとっては「情報」だが、同列の下位階層2、下位階層3にとっては「情報」ではないことが多い。

 「報告」は上位階層が下位階層を管理するためにを利用するための重要な「情報」である。 「報告」の主目的は組織管理だから、下位階層が共通して利用できる情報の「報告」を求めていないことが多いし、集めた情報を集積・分別して、下位階層で利用しようというモチベーションは低い。

 下位階層1は他の下位階層2や下位階層3が利用できるであろう「情報」を上位階層に「報告」することもできる。

 しかし、「指示・通達」&「報告」は階層組織の管理のために使用しているシステムであるから、「報告」は自組織の評価が上がるように「選択した情報」になる。少なくとも自組織の評価があがる方向にバイアスがかかっているのが普通である。 端的に言えば、良くないことは割り引いてあるし、良いことは盛ってある。

 つまり、下位階層からの「報告」は、他の下位階層の活動には利用できないことが多い。

下位階層の立場では

 このモデルでは、下位階層には上位階層からの「指示・通達」しか来ないので、下位階層が欲しい情報は、自ら探さなくてはならない。 問題は「情報」が集約されていないことである。

 上位階層への問い合わせは、正規のチャネルでは困難なことが多い。(主に心理的障壁)
下位階層は上位階層に集約した再利用可能な「情報」があると期待しているが、このモデルで上位階層が集めている「情報」は上位階層が利用するための情報だから、下位階層が再利用できる「情報」は少ない。

 同じ階層への問い合わせも、正規のチャネルでは困難なことが多い(縦割りの障壁)ので、個人的なチャネルを利用した「情報」の収集となることが多く、属人的になりやすい。

 定常業務が大半を占める(10年前も20年前も同じ仕事をしてるような)部門の場合には、生き字引的な特定の個人を通じて細々と「情報共有」しているともいえる。

 下位階層にとっては「情報」収集のコストが高いので、組織的な「情報共有」の要望が出てくるが、「情報」は文書化されていないことも多く、「情報」は人の記憶にあったり、暗黙知であることも多い。

 見落としがちなのは、「情報共有」を言う人の真意が「オレは情報出さないけど、オレに情報をよこせ」だったりすること。

図のモデルの問題点は

  1. 組織に「情報共有」の意識が無い。
  2. 「情報」が流通し難い形態である。
  3. 「情報」が分散している。

であり、誰かが「情報共有が必要」と騒いでいる段階だ。

 問題点の2と3、「情報の集約と流通」はITを利用すると安価に解決できそうだ。ただし、情シス部門が障壁にならなければ!

 厄介なのは、問題点1「情報共有の意識」だ。経験では、せっかく「情報共有」が必要だと気がついた人も「情報共有の意識」を考えないで失敗することが多い。(つい最近も...)

 ナレッジ・マネジメントと大上段に構える必要はなくて、なぜ「情報共有」が必要か考えればよいと思う。

結論

 組織管理のための仕組みを使用しての「情報共有」は極めて困難。

ありがちなモデル2 につづく


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