論説調 -相手が判断する余地を残すこと-
第1160回
SNSの書き込みを「〇〇である」と書き込んでいる人がたまにいます。論説調の書き込みが悪いとは言わないのですが、そういう書き方をしている人には「いつも、どんなところでも論説調」というような傾向があるように思います。
論説は、まさに「論文を説明する」ようなシチュエーションでは有効ですが、SNSのような「軽い書き込み」や、BBSのような「話し合いの場」では上から目線のようになってしまってかえって逆効果ではないかと思うのです。
そして「いつも論説調」になってしまうのは、「いつもその人は上から目線」であることが多いように感じます。
ネットでのBBSやSNSは、提案、報告、同調、反論というような「会話」で成り立つもの。同じように人と会う場合も「会話」が重要です。論説調はそれがしにくい。
「会話」「対話」がしにくいと、同調や共感を得にくいのではないかと思いました。
「〇〇である」使い方を気を付けようと気づかされました。
つい論説調で書いてしまうなあ。
σ^^)のような、空気が読めなかったり、人の心の機微が分からなかったりするような、非言語コミュニケーション能力が低い人が書くと論説調になるのではないだろうか。
文字によるコミュニケーションでは、感情を抜いて事実を客観的に書くと、客観的に伝わらないことは、パソコン通信の頃に学んだ。
ブログを始めた頃は、言いきらないようにとずいぶん気を付けていたけれど、そういえば、最近は意識していないような気がする。
BBSでの発言も上から目線のつもりはなくて、自分の考えたことを正確に伝えようとするあまり客観的すぎる表現になると、上から目線と思われるのだろう。
職業柄「理科系の作文技術」を参考に文章を書くことや添削するが多いので、ぼかし言葉を使わないで「はっきり言い切ること」を心がけている。
「理科系の作文技術」の著者木下是雄先生は、はっきり言い切る文章は日本語ではない、ぼかし言葉を使うのが本当の日本語だとおっしゃる。
読者(コミュニケーションの相手)が判断する余地を残すことが重要ということなんだろう。
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