デジタルが全てを破壊したフォントのはなし <変化できないものは消え去る>
デジタルが全てを破壊したフォントのはなし。 PRETTZ MAGAZINE 2017年7月29日
文章にはその内容と見え方(版組)がある。
昔LaTeXを使っていたころ、TeXを使うメリットとして「内容」と「版組」の分離はよく言われていた。 それまでは一太郎を使っていたので考えたことがなかった。
さらに、ユーザがフォントを選べるようになって初めて、デジタル・データ化された符号としての文字と人間が視認できる文字の姿形の違いを認識した。
文章が
文章 = 内容 + フォント + 版組
とすると、いわゆるデジタル化により、デジタル・データ化し易い「内容」を媒介する媒体は紙からNETや電磁的記録媒体に変わり、「見え方」も印刷から電気的なディスプレイに変わった。
デザイン業界の人は
文章 = 内容 + (フォント + 版組)←分離不可
と思っている人が多かったわけだ。
だから、
デジタルの戦いに背を向けた写研と、真っ向から向かい合ったモリサワ。
デザイン業界にいる人はこのような対立軸に感じるのだろう。
もう少し違う観点で見ると、
そもそも、普通の人々にとって「文章」を扱うときに不可欠なものは「内容」で、「フォント」や「版組」は必要最低限で良かったということではないだろうか。
デジタル化しようと考えたときに、「内容」をデジタル化することのメリットの方が「フォント」や「版組」の「美しさ」より重要だったということだ。 もちろん、 内容のデジタル化<「フォント」や版組の美しさ という場面はあるだろう。そのような場合は、美しいフォントと職人技が必要になる。 逆に言うと、そのような場面でしか、美しいフォントと職人技は必要とされないということだ。
つまり、デジタルの戦いというけれど実際は、
- フォントと版組が分離できるか、できないか
- フォントと版組の美しさを優先したか、内容のデジタル化を優先したか
の違いと観ることができる。
デザインには疎いので、 フォントと版組が本当に切り離せないのかは分からないのだが、歴史的に見ればCPUパワーは数々の不可能を可能にしてきた。
「フォント」と「版組」が分離不可能で「内容」のデジタル化よりも重要であり続けるなら、写研のアプローチは正しいのだろう。 競合他社より「美しいフォント」「美しい版組技術」を持っていることは貴重な資産になるから、これらをデジタル化したフォントを公開しないという戦略は合理的だ。
しかし、「内容」のデジタル化が重要であれば、競合他社より「美しいフォント」「美しい版組技術」を持っていることは貴重な資産にならないから、デジタル化したフォントを公開する戦略の方が合理的だ。
デジタルが全てを破壊したわけではなく単に経営戦略の話ではないのかな?
ルールや価値観が劇的に変わるのは、アナログ時代にもあったことだ、そして、変化に対応できない者は忘れられる定めもアナログ時代から変わらない。
閑話休題
技術屋なので、美しい「版組」を実現する職人技の方に注目してしまう。
既存のルールや価値観の中で成功しているものは、変化に追従できないことが多い。しかも、変化の兆しに気が付き警鐘を鳴らすものは異端児扱いされる。
技術・技能を売りにしている場合も同じだ。技術的な優位性に捉われて、その技術・技能の必要性に目を向けないことがある。 いくら技術的に優位であっても、その技術・技能に必要性がなければ、あるいは、技術が低コストで代替できるなら、職業として成り立たなくなる。
高い技術・技能を持っている者ほど、その事実を受け入れられない。その結果、記事中に引用されている、「 オレ達はオレ達のプライドに殺される」ことになる。
「高度な〇〇」のような謎フレーズに惑わされてはならない。求められているのは〇〇の必要性だ。ここを見誤ると10年後にはおまんまの食い上げになる。
変化の兆しに気が付いた者は異端児扱いされても警鐘を鳴らさなければならない。
現在高い評価を得ている者(高度な〇〇を持っている者)には、 異端児が単に異端児なのか救世主なのかの判断はできないと思う。
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