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リーダーシップ

2018年12月 4日 (火)

〝誰も管理職になりたくない〟時代だからこそみんなでつなぐリーダーシップ

〝誰も管理職になりたくない〟時代だからこそみんなでつなぐリーダーシップ 高橋克徳 実業之日本社

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 高橋克徳氏が東洋経済に書かれた記事は年寄り向けだったのかイマイチぴんとこなかったので著書を読んでみた。

 「組織論」「リーダーシップ論」としては、よく纏まっている。 管理職、マネジャー、リーダーの役割が曖昧な気もするが、きちんと分離しない日本的組織が前提ということであろうか?

 高橋克徳氏曰く、年寄りは、最近の若者が出世したくないと言うことが理解できないと。

 若手世代が突きつけているのは、本当に企業のために、上司のために働けば、わたしたちは幸せになれるんですかという問いです

とおっしゃる。
そして

「管理職になりたくない」=「人の上に立ちたくない、責任を負いたくない」という心理は、実は多くの日本人の中にすでに広がっている感情なのではないでしょうか。

とおっしゃる。

 管理職やリーダーを目指すと誰でも幸せになれるわけではないことは、若者だけでなく年寄りも知っている。

 年寄りは知らないフリをしているのだが、「分からないことは何でも聞きなさい」と言われて育った若者は年寄りに問いかける。「本当に幸せになれるのですか?」と。

 ところが、年寄りは本当のことが言えない。 管理者をやっている多くの年寄りが持っている「幸せになる方法」は自ら考えたものではなく与えられたものだから。 そして、その「幸せになる方法」は揺らいでいるから。

 こんな年寄りにとって、管理職になりたくないという若年層への対応は大きな問題だ。

 高橋克徳氏の主張は、「若年層の意識を変えるのではなく、組織を創り直すべき」だ。 20代、30代の若年層、管理職、経営層それぞれにリーダーシップが必要で、それぞれが対話して連携しながらリーダーシップを発揮する組織にすべきとおっしゃる。

 新たに、組織を創る場合は、管理職の定義やリーダーシップの考え方を定義することは簡単だ。 また、小さい組織の場合は、旧来の強力なリーダーシップを利用して定義し直すこともできよう。

 組織の将来を真面目に考えたことがある管理職なら、高橋克徳氏の提唱するリーダーシップや組織のあり方は考え方としては分かる。 しかし、小手先の改善では現状を打開できないこともよく知っている。 

 問題は実現方法だ。

大きい組織や、古い組織は

経営層が変わっても、組織全体の考え方を変えるのは難しい。
管理職が単独で組織を変えることも困難だ。
若年層は岩のように変わることを拒む(ように見える)組織を変えるという発想すら浮かばない。

 だから、全員が自分に応じたリーダーシップを発揮すれば組織は変わるという考え方は理解できる。 しかし、方法論の無い原理は絵に描いた餅だ。

 高橋克徳氏がいう、3つのリーダーシップが後天的に獲得できるならば、管理職に対して教育やトレーニングすればよい。

 ところが、大きな組織は往々にして官僚型だ。 官僚型の組織はリーダーシップ獲得の教育やトレーニングをやらない。 官僚型の組織では管理職に管理能力しか求めていないからだ。 当然、リーダーシップを持った管理職は希少だ。

 このような状況で、全員がリーダーシップを発揮できるようにするには、自分は何をすべきかと考えると、途方に暮れてしまう。 そして、政治を変えたいならまず選挙に行くような結論に至る。

 この本のような立派な「組織論」「リーダーシップ論」を読み終わったときに、心躍らない理由は歳を取ったことだけではないと思う。

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 それでも、自分ができることをやるしかない。



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2018年7月17日 (火)

アメリカ陸軍リーダーシップ リーダーシップは進化している

アメリカ陸軍リーダーシップ フランシス ヘッセルバイン、リチャード キャバナー 生産性出版

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 日経ビジネス 2010.9.13 「軍隊式マネジメント 戦場の指揮官から学ぶ」 (指示しないマネジメント(2018/04/28))で紹介されていたので読んでみた。

 「マネジメントとリーダーシップの違い」でジョン・コッター氏は、戦時下の軍隊ではあらゆる階層で優れたリーダー・シップが必要になるとおっしゃる。 軍隊はいかにも官僚的組織の象徴のように例えられることが多い。これは戦時下ではなく平時のことだろう。
戦時中、特に戦闘中には官僚組織の逆機能は命取りになる。

 大量の指揮官が必要な軍隊では、指揮官にふさわしい人材の確保が問題になる。

  「日本型リーダーはなぜ失敗するのか」(16/01/05)や「不死身の特攻兵」(2018/07/05)を読むと先の戦争では、日本軍は指揮官にふさわしい人材が十分に確保できていなかったようだ。 育成できなかったというべきか。

 日本は先の戦争以降戦争を経験していないから、この教訓を忘れてしまったのだろう。
今でもリーダーにふさわしい人材の育成について考えられていないような気がする。

 一方アメリカは今でも戦争をしているので、この問題は切実で、その解決策が リーダーシップの原則「Be Known Do」や自主的討議AAR(fter Action Review)なのだろう。

「Be Known Do」

「Be」とは
リーダーとして「どうあるべきか」と」いう品格
具体的には、忠誠、義務、尊敬、無私の奉仕、名誉、高潔、個人的勇気
「Known」とは
リーダーとして「何を知るべきか」というスキル
具体的には、対人スキル、概念的スキル、技術的スキル、戦術的スキル
「Do」とは
リーダーとして「取るべき行動」
具体的には、影響、実施、改善

 戦場ではリーダーとして判断を求められたときに、誰の助けもなく決断しなければならないことがある。 ところが、これまで経験したことがない状況では、たくさんの正解や最適解を知っていても正しく判断し決断することはできない。 そのときに、少なくとも判断を誤らないために、立ち戻る原則が必要だ。

 それがこの原則で、判断に困ったら、「Be Known Do」に照らして判断すれば、誤ることはない。

 硬直化した官僚組織の原則は、「困ったら上に聞け」だったりする。 戦場では死んでしまう。

AAR

 AARの要点は

  • 出来事の途中か、その直後に実施される。
  • 特定の標準へ関連づけ、意図された目標へ集中する。
  • 兵士、リーダー、部隊の遂行へ焦点を当てる。
  • 参加者全員を討議へ参加させる。
  • 「解放型質問」を使用する。
  • 強みと弱みを確定する。
  • 遂行を、引続く訓練へと関連づける。

で、重要な点は、階級に関係なく出席できて発言が許されていることだ。

具体的にはファシリテータは4つの質問を使うらしい。

  • 「われわれは何をやろうとしたのか?」
  • 「実際に行動した結果、どんなことが起きたのか」
  • 「なぜそうなったのか?」
  • 「この失敗を踏まえ、次に何をするべきか?」

これが、アメリカ陸軍が、命の懸った戦場で学んだ、「現場における最適な学習方法」ということだろう。

軍隊以外への応用を考えると

 このマネジメント手法は合理的な思考を尊重する風土があったり、小規模で意思決定が速い組織ならなら有効だろう。

 では、肥大化して意思決定者が増えすぎた組織ではどうか?
残念ながらそのような組織は合理的ではないから、このマネジメント手法を導入すること自体が難しいのではないだろうか。

 しかし、組織全体で導入するのは難しくても、所属、部、課、係などの小さな単位ならばリーダー次第で導入は可能だろう。

 オペレーションが成功しても失敗しても結果から学び次の成功に繋げる風土を作るのはリーダーの仕事だ。


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2018年5月 2日 (水)

リーダーシップとマネジメントの違い

[新訳]リーダーシップとマネジメントの違い ジョン P コッター ダイヤモンド社

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ジョン P コッター氏は、リーダーシップとマネジメントにはそれぞれ役割があり、

マネジメント
:複雑な状況にうまく対処する
リーダーシップ
:変化に対処すること

だとおっしゃる。例えば、

  • 「方向性の設定」VS「計画と予算の策定」
  • 「人心の結合」VS「組織編成と人員配置」
  • 「動機づけ」VS「統制と問題解決」

等である。

平時の軍隊は、階層の上から下まで運営と管理が行き届き、同時に上層部の優れたリーダーシップがあれば、ふつう大丈夫だろう。
しかし戦時下では、あらゆる階層で優れたリーダーシップが必要になる。 人々を突撃させるうまい方法など、だれにもわからない。 つまり、彼らは、リーダーシップで率いていかなければならない。

 軍隊の例は分かりやすい例えだ。
平時に運営と管理が行き届くとマネジメントについて考えなくなる。すると、マイクロマネジメントが行き渡る。

 この状態から、短期間で、戦時下に必要な各階層にリーダーシップを発揮できる人材を配置するのは困難だ。できないのかもしれない。

 歴史に学ぶなら、日清戦争における清国、日露戦争におけるロシア帝国、第2次世界大戦における日本軍はいずれも官僚組織から戦闘組織への転換ができなかったのだろう。

 ジョン P コッター氏はリーダーシップの学習について次のように指摘する。

リーダーシップの役割は広範囲にわたるが、これを効果的に発揮している人たちのキャリアは、えてして共通している。もっとも一般的で何より重要なのが、キャリアの早い段階で大きな試練に遭遇していることだろう。たいていのリーダーが、二〇代か三〇代に、リーダーの役割を果たそうと努力し、リスクを背負い、成功と失敗から学習するという機会を経験している。

が正しいとすると、20代~30代でリーダーシップについて学習していなければ、その後優れたリーダーシップを発揮することは困難ということだろうか?。 そうであれば、完成された官僚組織では、優れたリーダーシップを持った人材を探すのは困難ということになる。


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2017年12月 8日 (金)

リーダーを育てる

 今日ヨッパラって帰りながら考えたことは、リーダーが必要だということ。

 組織を代表するリーダーは当然として、現場のリーダー、ミドルマネジメントのリーダー、技術屋集団のリーダーなどそれぞれのテリトリーにリーダーが必要。

 ところが、リーダーは手を上げればなれるものではない。 ましてや、役職に就いたからリーダーになれるものではない。

 リーダーは「なる」ものではなく「認められる」ものだから、メンバーに「ぼくらのリーダー」として認められなければならない。

 リーダーは必ずしもカリスマ性を持っている必要はない。カリスマ性がなくてもメンバーに認められればリーダーになれる。というか、認められた時点でリーダーだ。

 では、どうやってリーダーを育てるのか? リーダーを育てる風土が無いから正直分からない。 見込みがある奴を世話焼き(育成係)がメンバーのところに連れて回るくらいしか思いつかない。

 自分が知っているリーダーは自らメンバーのところに足を運んでいた。仕事でも、飲み会でも、プライベートでも。だからメンバーから「ぼくらのリーダー」として認められていたのだろう。

 誰でも覚悟を決めたらリーダーになれる。しかし、役職に就いたからリーダーになれるものではない。

(よ)


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2017年11月22日 (水)

優れたリーダーはみな小心者である

優れたリーダーはみな小心者である。  荒川詔四 ダイヤモンド社

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 元ブリジストンCEOの荒川詔四氏が考える、大きな組織の中のリーダー論。

 タイトルには小心者とあるが、自分への戒めを超えて自虐的ともとれる内容もある。しかし、読み進めると、組織の大小は関係なくリーダー・シップを発揮しなければならない人にとっては、自虐ではなく戒めのように感じる。

 荒川詔四氏は出世について、

 そもそも、組織における出世などいい加減なものです。
  ほとんどが、たまたまそうなっただけ。たまたま、自分の直属の上司が出世したから、それに引っ張られて自分も出世した。たまたま、年次的に適任者がいなかったからお鉢が回ってきた。そんなものです。

 そして、自身のCEO就任も、なんらかの組織的な力学が働いて、たまたま私が選ばれただけだとおっしゃる。 これは、部外者には真偽のほどは分からない。「選ばれるべくして選ばれた」と考えることの危うさが伝えたいことだろう。

 また、リーダーは合目的であることに徹すれば良いともおっしゃる。
「たまたま選ばれた」と考えれば合目的に徹することは簡単だろう。これを、「選ばれるべくして選ばれた」と考えると、自分は他の人より優れていると考えてしまうから、合目的に徹することは難しい。

 地位(ポスト)は組織の目的を達成するための機能という考え方は合理的だ。しかし、日本人は(にかぎらず?)地位に能力だけでなく人格を求めてしまう。

 地位に見合う能力も人格も無いことは本人が一番よく知ってても、周りからチヤホヤされると、能力や人格を備わったのではないかと勘違いしてしまう。これも荒川詔四氏の指摘どおりだ。

リーダーたるもの、「自分こそが社会変化を起こす」という創造的発想をもたねばならないはず。にもかかわらず、「社会変化についていけなかった」などと〝犠牲者〟ぶっているようでは、誰もリーダーとは思わないでしょう。

 地位に見合う能力も人格も無いとしても犠牲者ぶらないことはできる。


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2017年10月24日 (火)

9 9 %の人がしていないたった 1 %のリ ーダ ーのコツ

99%の人がしていないたった 1%のリ ーダ ーのコツ  河野英太郎 ディスカヴァ ー ・トゥエンティワン

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 河野英太郎氏はリーダーとマネジャーの違いを

私なりに整理すれば 、 「リ ーダ ーは性善説にもとづき人をやる気にさせる仕事 」 、 「マネジャ ーは性悪説にもとづき人を管理する仕事 」となります 。

だとおっしゃる。

 以前はリーダーは先天性の資質が必要だと思っていので、自分はリーダーの器ではないのでマネジメントをやろうとしていた。その後、いろいろな本を読むとリーダーも後天的に獲得できる能力と書いてあった。この本も、リーダー・シップは後天的に獲得できると書いてある。

 リーダーとマネジャーは分離できないことが多く兼務せざるをえないことはある。しかも、組織からは管理者を期待されることも多い。

 リーダーとマネジャー、管理者を上手く使い分けることができれば良いのだろうが。性善説のリーダーと性悪説のマネジャーを使い分けることはできないと思う。 性悪説の人格と性悪説の人格を一人が使い分けるのは無理がある。

 一人でリーダーとマネジャーを兼ねることが無理なら二人で役割を分担すればよい。しかし、古い組織では明示的に分担することは難しいから、管理者が積極的にどちらかの役割を委譲しなければならないのだろう。


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2017年8月30日 (水)

最高のリーダーは何もしない <ようにみえる>

最高のリーダーは何もしない 藤沢久美 ダイヤモンド社

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トヨタが復活し、シャープが凋落した理由を藤沢久美氏は

一方、シャープやソニーでは、創業時の哲学とそれに基づくビジョンが、ある時期から途絶えてしまった感があります。企業の哲学とはかけ離れた目的を掲げるリーダーが登場したことで、組織を支える「根っこ」がなくなってしまい、従業員たちが依って立つところを見失ってしまったように見えます。

という。

 創業時の哲学を引き継がないトップに変わり、創業時を知らない人が増えたのは、他人事ではない。もう、原点回帰することはないだろう。であれば、リーダーは今「依って立つところ」を示さなくてはならない。

 「依って立つところ」を示すには、「依って立つところ」を考えられて、しかも、示して伝えられることが必要だ。

 「依って立つところ」を考えることと、「依って立つところ」示し伝えることの両方できるリーダーが少なく(いなく)なっているのだと思う。

 「依って立つところ」を考えることより、示して伝えることの方が難しい。しかし、その気になれば考えることはできる。また、示して伝えることもその気になればできる。 重要なことは、相手に伝わるかどうかということ。伝えることはスキルだけではない「何か」が必要だ。

 それなりのポジションに就けば、伝えられるようになると思ったら大きな間違いだ。これは経験から言える。それなりのポジションに就く前から練習しておかなければ到底無理だと思う。

 そう考えると、最近「依って立つところ」を示して伝えらるリーダーがいなくなったのは、それなりのポジションに就く前に考え、示し、伝える練習をしてこなかったことが原因だろう。

 つまりリーダーを育ててこなかったツケが回って来ている。

 事実、それなりのポジションに就くまでに、考え、示し、伝えることを求められた覚えはない(覚えていないだけか?)リーダー候補として見られていなかったのかもしれないが。

 考え、示し、伝える練習をしてもできるようになるとは限らない。できるようにならないからこそ、オジサンたちは、次世代を担う人達に、考え、示し、伝える機会を与えなければならない。このオジサン何もしない!と思われても。

「最高のリーダーは何もしない」ように見えるのだ。(^^ゞ


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2015年12月 6日 (日)

リーダーシップ入門 <リーダーシップは後天的に獲得できる>

リーダーシップ入門 金井寿宏 日経文庫

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 リーダーシップは天与の性質ではなく、後天的に獲得可能なスキルだという。そして、それを実際に身につけ付けるためには、

  • 自分がリーダーシップを直接に経験すること
  • すごいリーダーだと思える人といっしょに仕事をして、その人の言動を観察すること
  • それらの経験と観察からの教訓を言語化して、自分なりの持論を構築すること
  • 学者の理論や優れた実践家の持論は鑑賞するように読むのではなく、自分の持論を創出し肉付けするために活用すること

が必要なのだそうだ。

 リーダーシップという複雑な問題を単純化して、簡単なセオリーで片付けたいのは人の常だだけど、リーダーシップは、フォロワーとの間に存在するものだから、リーダーとフォロワーとの組合せの数だけリーダーシップの形態が存在する。唯一無二のリーダーシップは存在しないのだと思う。

 金井寿宏氏が言う「直接に経験する」「持論を構築する」はリーダーシップについて仮説を立てて実践し、反省することで有効性を確認し、有効であれば継続し、有効で無ければ、次の仮説を立てる。この作業を継続するということなのだろう。

 借り物のリーダーシップは役に立たないということか。

2015年11月12日 (木)

僕らのリーダー <リーダーはなるものではなく認められるもの>

 リーダーはなるものではなく、認められるものである。
そして、多くの人から自分のリーダーと認められているのが「ぼくらのリーダー」である。

リーダーシップへの誤解

 歳をとったり、肩書きが付くと、それなりのリーダーシップを求められるようになる。ところが、周囲から認められて始めてリーダーになれるわけだから、歳をとったからといって、にわかにリーダーシップが発揮できるわけではない。

 勘違いしている人が多くて、歳相応のリーダーシップを発揮すべきとか、肩書き相応のリーダーシップを発揮すべきとか、難しいことを求める。そもそも、リーダーは皆から認められるものだから、歳をとったとか、肩書が付いたから、皆にリーダーとして認められるわけではないのに。

 組織を維持し成果をあげるためには、

  • 肩書き(権限)
  • リーダーシップ
  • マネジメント

が必要だ。しかし、これらの要素を全て兼ね備えた人物は極めて稀である。
多くの場合、リーダーシップ+権限かマネジメント+権限だ。権限だけの人もよく見かける。

 とかく肩書き(権限)を持つと、機能を他人、特に部下に移譲することができない人が多い。
リーダーと認められていないのだから、無理にリーダーシップを発揮しようとせず、リーダーシップの要素を他の人に任せるべきだ。

 役職に就いたがメンバーからリーダーとして認められていないのであれば、No2にリーダーシップを移譲すればよい。マネジメント能力がないなら、番頭にマネジメントを移譲すればよいのと同じだ。移譲できるかできないかが、人の器なのかもしれない。

 肩書き(権限)、とマネジメント能力は努力して獲得することができる。 ところが、リーダーシップは努力すれば獲得できるという性質のものではない。(リーダーシップは後天的なスキルなのだそうだ。本を読んでみよう)

僕らのリーダー

 どのような範囲でも、それなりのリーダーはいるものである。 机を並べて仕事をしている人達の中にも、会社レベルでも、国家レベルでも。

 そして、複数の人から自分のリーダーと認められているのが「僕らのリーダー」である。

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 「僕らのリーダー」がいる範囲は価値観を共有できる範囲と一致しているようだ。

 自分がリーダーと認めている人が昇任して権限を持つと、「僕らのリーダー」が権限を得たと思う。 大きな組織になると、この構造は階層的になるので「僕らのリーダ」にもまた、「ぼくらのリーダー」がいる。下位層から見ると「「僕らのリーダー」のリーダー」だ。

 この状態でも、価値観は共有できることができる。大きな組織ではこの形が理想だろう。 

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 部門に「僕らのリーダー」がいなかったら、部門全体の共通した価値観がない状態で、誰かが部門を率いなければならない。 それには2つの方法がある。

  1. リーダーシップを委譲する
     びとつは、リーダーシップを移譲する方法だ。
    部門全体でなくても「 僕らのリーダー」の者にリーダーシップを移譲して部門全体にリーダーシップを発揮してもらい、自分は意思決定を行う。マネジメントも移譲すると、意思決定に専念できる。
    つまり、権限、マネジメント、リーダーシップを分業する方法だ。
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  2. 官僚的にする
     もう一つの方法は、官僚的にする方法だ。
    官僚組織化すると、下位組織は上位の意思決定を実行する機関として扱うので、意思決定しなければならない事項は増えるが組織を機能させることができる。
    しかし、下位組織は自律的に活動しなくなるので、この方法はトップの器次第だ。
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 過去の経験した例では、「僕らのリーダー」ではない人が役職に就いたことがある。その人は意思決定に専念し、マネジメントを子飼の部下に移譲した。(セオリーどおりだ)ところが子飼いの部下は「僕らのリーダー」ではなかった。当然フォロワーはいないも当然だから、フォロワーの不在を官僚制に求めた。その結果は推して知るべしだ。

僕らのリーダを育成する

 将来のトップ候補に「僕らのリーダー」はいないので、リーダーシップの移譲先となる人材を育成しなければならない。
限られた範囲でリーダーシップを発揮させる経験から初めて、「僕らのリーダー」になるための、「僕ら」を増やすのだ。

 自然発生的に「僕らのリーダー」が生まれるのを、漫然と期待していてはいけない。

2015年9月10日 (木)

情熱大陸 2015/09/06 川淵三郎

情熱大陸 2015/09/06 川淵三郎

 2015/9/6の情熱大陸は川淵三郎バスケットボール協会チェアマンだった。

 川淵三郎氏は、サッカー日本代表、古川電工監督、日本代表監督を歴任されJリーグ初代チェアマンとして現在のJリーグを創った人だ。

 Jリーグができた時はバブルで企業に金が余っていたという事情はあったにしても、プロ野球のようなオーナの独裁経営やプロとアマの確執が無いようにして地域密着の仕組みを作り上げた手腕に対する評価は高い。

 何も考えずプロ化すれば、バレーボールのVリーグのように失敗しするし、バスケットボールのように分裂する。

 川淵三郎氏はサッカーでは日本代表監督を経験し、仕事では古川電工の営業部長を務めた人だからリーダシップを持っているのだろう。

 Jリーグチェアマン時代には散々「独裁者」と言われたようだ。番組の中で川淵三郎氏は
「リーダーは時に独裁者でいい」「しかし私利私欲を捨てて理念をもたなければ独裁者になる資格は無い」と言う。

 リーダーシップと志を持った者に権限を与えれば良い。バスケットボール協会はこれまでこんな簡単なことができなかったわけだ。バスケットボール協会だけではないけれど。

 リーダシップと志を持った者に権限を与えないのはスポーツ界に限った話ではなく、組織全般に言えることで、身近なところでもよく見かける。

 リーダーシップと理念・志を併せ持った人が少ないのだろう。少ないのであれば、誰に権限を与えるかを真剣に考えなくてはならない。

 真剣に考えることは、普通の人でもできる。

参照